■自己との闘い
誰しも、難しい課題に挑戦していると、壁にぶつかるのは避けられないことです。それを克服するためには、前向きに乗り越えていける忍耐力が必要です。
忍耐力のある人にはそれなりの経験値が備わっています。数々の山場を乗り越えてこられた人々は、自分自身のことも熟知されています。
では、忍耐力を身につけるためには、まず自分のことをしっかりと理解する必要があります。
自分がどのようなことにストレスを感じるのか? ストレスを感じたとき、どうすればそれを発散することができるか? どのようにしたら自分のモチベーションを回復できるか? 自分がどういう状態になったら限界が近いかも冷静に把握しておかねばなりません。
以上のことを理解しておくことが、セルフコントロールにつながります。セルフコントロールができれば、ストレスに打ち勝つ対策を実践することができるため、自然に忍耐力が鍛えられるというわけです。
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本当の敵は自分の内側にいる
1969年の冬、あなたが日本の紀伊山地を歩いていたとしたら、ちょっと奇妙な光景を目にしたかもしれない。白人の博士課程の学生がいきなりやってきて、日本の僧侶になりたいと言いだしたのだ。
しかし、高野山の住職に門前払いを食らった。それでもヤングは粘りつづけ、やがて寺の雑用をやるという条件で滞在を許された。
顔色の悪い痩せたアメリカ人男性が、素っ裸で、凍りそうな冷水を頭からかぶっている。彼の名前はスティーブ・ヤング。真言宗の僧侶になるため、修行に打ち込んでいるところだ。
長い修行の日々が始り、ちっぽけな部屋には暖房がなく、3日に1度は冷水で身を清めなくてはならない。温暖なカリフォルニァの海辺で育ったヤングにとって、骨まで凍てつくような雪解け水を何杯も浴びるのは想像を絶する試練だった。
ヤングは言う「水が床に垂れた瞬間に凍るほどの寒さでした」と。 「手に持ったタオルもすぐに凍ってしまいます。裸足で氷の上を歩き、凍った手ぬぐいで体を拭くのです」肉体的な苦痛に直面したとき、人は本能的にその感覚から気をそらそうとする。
たとえば注射が苦手な人なら、注射を打つあいだ、診療所の味気ないポスターを必死で見つめていたりするだろう。
ヤングも最初はそうだった。凍てつく水が肌を刺すたびに、何か別のことを考えようとしたり、意志の力で冷たさの感覚を消そうとしてみた。
目の前の現実がつらすぎて心を別のところに向けるというのは、常識的に考えれば妥当な反応だ。 しかし、刺すように冷たい水を何度も何度も浴びるうち、ヤングはそれが誤った戦略であることに気づいた。
むしろ意識を冷水に集中させて、強烈な冷たさを全力で感じたほうが、苦痛が軽減されることを発見した。
彼は冷水をかぶるたびに、今ここで感じていることに意識を集中させた。そうすると、冷たさを感じても、苦痛にのみ込まれずにすむのだった。
やがて、それこそが冷水の儀式の目的であることがわかってきた。 修行生活を終えたあと、ヤングは自分の意識が変化していることに気づいた。
今ここに集中する技術を身につけたおかげで、日常のさまざまな場面で感じる苦痛が明らかに減っていた、以前なら考えるだけで憂欝になっていた雑用にも、前向きに取り組める。
問題は活動そのものではなく、自分の心の中の抵抗にあったのだ。 抵抗をやめて、目の前の感覚に注意を向けると、不快感は静かに消えていった。
なぜやりたいことをやりたくないのか
ヤングの試練は、人が注意力散漫になるときに、本当は何が起こっているのかを示唆している。目の前の苦痛から逃れるために、気をまぎらせてくれる何かを探しているのだ。
仕事に没頭しているときには、SNSの誘惑はやってこない。ついSNSを開いてしまうのは、なんとなく退屈でやる気が出ないときだ。
自分のなかの自分が、口笛を吹きながらそっと心のドアを叩く。 「ねぇ、ブラウザの夕ブをひとつ開けば、目に前の重要で困難な仕事から逃れて、別のラクなことができるんだよ」
別にトイレ掃除や確定申告だけではない。心からやり遂げたいと思っていることでも、やらなければと思うと、なぜかやりたくなくなっているのだ。
これはいったい、どういうことなのか。なぜ僕たちは、自分が本当にやりたいと思っていることに集中できないのだろう。なぜやりたいことをやらずに、やりたくもない気晴らしに逃げ込んでしまうのだろう?
もちろん、ある種の活動は本当に嫌だったり、怖かったりする。そこから逃げたいのは当然のことだ。でも、それより一般的なのは、とくに理由もなく感じる退屈だ。
ものすごく重要でやりたいと思っていた活動が、なぜか急にひどく退屈に感じられて、一瞬も集中できなくなる。
僕たちの有限性
この不可解な現象の答えは、何を隠そう、僕たちの有限性にある。 僕たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ。
つまり、時間が限られているという現実や、限られた時間をコントロールできないという不安を、できるだけ見ないようにしているのだ。
不快感をそのまま受け入れる
退屈がつらいのは、単に目の前のことに興味がないからではない。退屈とは「ものごとがコントロールできない」という不快な真実に直面したときの強烈な忌避反応だ。
僕たちにできる最善のことは、不快感をそのまま受け入れることだ。 重要なことをやり遂げるためには、思い通りにならない現実に向き合うしかない。その事実を受け入れ、覚悟を決めるのだ。
解決策がない、という事実こそが、ある意味で解決策だといえるかもしれない。スティーブ・ヤングが高野山での修行で見いだしたのは、現実から逃げるのをやめれば苦痛がやわらぐという事実だった。
現実逃避をやめて、凍てつく水をしっかりとその身に受け止めたとき、それまでの苦痛は消え去った。嫌だという気持ちよりも、今ここで起こっていることに注意を向けることができたからだ。
難しいタスクを落ち着いてやり遂げるには、完壁に没頭できる状態を夢見るよりも、嫌な気持ちをそのまま認めたほうがいい。
苦痛や退屈を否定せず、今起こっていることをそのまま見つめたほうがいい。
現実は思い通りにならない
禅の教えによると、人の苦しみはすべて、現実を認めたくないという気持ちから生じているのだという。
「こんなはずではなかった」「どうして思い通りにいかないんだ」という気持ちこそが、苦しみの根源なのだ。
自分は万能ではない。ただの無力な人間で、それはどうしようもない。その事実を受け入れたとき、苦しみはふいに軽くなり、地に足のついた解放感が得られるようになる。
「現実は思い通りにならない」ということを本当に理解したとき、現実のさまざまな制約は、いつのまにか苦にならなくなっているはずだ。
参考文献:『限りある時間の使い方』 オリバー・パークマン著 かんき出版