幸福への道

幸福論で有名なアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ)はパリの学校で教鞭をとるかたわら、短い断章の文章を残しました。

だれもが幸福になりたいと願っています。しかし、これといって不幸な出来事に出会っているわけでもないのに、不機嫌な人はいませんか? 

実は、人間が本来、自然にまかせていると不幸になってしまう存在であるそうです。 だから、幸福になろうと努力しないと幸福になれません。幸福感は心と体のバランスのとり方で決まります。

そのため、気分というものはいつも良くないものになりがちです。  そこで、「幸福になるぞ!」という意志をもって自分をコントロールする必要があります。だから、ぐちも言ってはいけません。これは難しいですね。

不機嫌さの原因は、精神的なものよりも、身体の変調によるものが多いそうです。肉体を支配し鍛えることによって、心も統御できることの大切さも説いています。

その意味では、昨今の筋トレブームなどは的を射ているのかもしれません。 幸福になるには結構な努力が必要です。 

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幸福は自分自身の「手作り」である

情念は「やぶだらけの広大な原野」のようなものだそうです。確認しておきたいのは、アランは情念を否定しようとしているのではありません。情念は自分そのもので、そもそも情念を一掃することなどできません。

情念を否定したり、逃げるのではなく、この「原野」を手で開墾しなければなりません。アランは情念を制御するための最高の治療薬は、デカルトの『情念論』において提起している「高邁の心」であると説きました。

「高邁」とは「ジェネロジテ」という概念を訳した言語です。自分のなかの正当な範囲ぎりぎりのところで、高慢にも卑下にも陥らずに自分を大切すると言う考え方です。

アランは「幸福論」のなかで「私の情念、それは私であるが、それは私よりも強い」と述べています。つまり、情念そのものが自分自身であります。

デカルトは情念と高邁の心は反対のものとしてとらえています。しかし、アランは一部、認めながらも、「情念と高邁は繋がっている」と指摘しました。

高慢にも卑下にも陥らないぎりぎりのところで、自分自身を尊重にしながら、自己を形成し制御しています。言いかえれば「汝自身を知れ」という言葉の実践になります。

「高邁の心」を持って自分の気分を開墾するということは、理屈でもって考えるのをやめ、まずは「行動を起こし、幸福を手作りしよう」と提案しています。  

悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力による

「楽観主義」は、アラン哲学でも根幹をなす大事な思想の一つです。意志の力で楽観主義になることが、幸福をつくりあげる第一歩であります。

一方の「悲観主義」は意志や努力は必要ありません。アランは「悲しみ」という言葉でそれを表現しています。幸福になりたいと思ったら、努力し行動しなければなりません。

無関心な傍観者の態度を決め込んで、ただ扉を開いて幸福が入るようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみでしかありません。 自由に働くのは楽しいが、奴隷のように働くのはつらいですね。労働者自身が自分のもっている知識と経験にもとづいて調整する仕事を「自由な労働」と呼びます。

自分の土地を耕す農夫は、作業が辛くても、苦労があっても、自分の意志による仕事ですから達成感があります。気持ちも満たされます。これを「幸福な農夫」と名付けます。

逆の例として、監督があれこれ口うるさく指示し、命令され強要される農夫は、やる気が失せ、気持ちが満たされません。

農夫はやらなければならない仕事が季節に応じて、次から次へとあります。一つの収穫が次の収穫を約束します。この収穫の喜びが幸福の形であります。

このように、アランは「意志」の力によって、「行動」を支配することが重要であると述べています。

この「楽しむ」という行いが非常に大きなポイントです。アランは「幸福論」のなかで古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉を引用して、「真の音楽家とは音楽を楽しむ者であり、真の政治家とは政治を楽しむ者である」と述べています。

このように自分の行動を喜びとして楽しめる行為こそ、「能力の証」だと言えます。

幸福は困難を乗り越えた先に

しかしなかには、はじめから楽しさを推測することのできないこともあります。 読書の楽しみはまったく予見不能です。たとえば、バルザックの小説は、最初は、難しくて退屈するかもと、バルザックのなかに入り込むにはかなりの勇気がいります。

経験豊かな読書家でさえ、学問とははるかに眺めていてもおもしろくないかもしれません。 しかし、学問の世界に入り込むことが大切です。はじめは無理にやらねばならないことも、面倒はいつもあります。

つまり、仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難を乗り越えること、これがおそらく幸福の公式でしょう。 このように、「意志」とともに「行動」を起こすことが、幸福を勝ち取るもっとも大事なことだと説きました。

幸福は行動の中にしかない

つまらない芝居を見ると私たちは退屈しますが、自分が芝居に出るとなると退屈などしていられません。幸せを欲するのであれば、観客になるのではなく、舞台に上がらなければなりません。そして、全身で「知覚」しなければなりません。

ただし,「行動」と言っても、私たちが考えているようなマッチョなものではけっしてありません。

そもそも、「幸福」は「想像しえないもの」であるのに加えて、力んで求めるものではなく、日々の振る舞いによって少しずつ積み重ねていくものです。

しかし、「希望」、「正義」、「責任」など一見価値のありそうなことに過剰に執着すれば、こわばりの原因になるので注意しましょう。

「幸福はいつでも私たちを避ける」と言う人がいるかもしれませんが、人からもらった幸福についてなら、それは当然です。 人からもらった幸福はおよそ存在しないものです。しかし、自分自身で努力して掴み取った幸福は、けっして裏切りません。このように自分の幸福は行動によって生み出していくものです。

そうして手に入れた幸福にこそ価値があり、必ず私たちに応えてくれます。 能動的に体を動かそうとする「意志」、困難があろうとも継続する「努力」,そして実際に「行動」すること。

これこそが幸福になるために必要なことだとアランは考えました。  

礼節を重んじ上機嫌で

こうして、情念を制御することは、自分を知り、さらには自分をつくりあげることに繋がります。

自己の形成は、自分ひとりで完結するものでもありません。私たちは社会のなかで生きているわけですから、他人との関わりを通して、他人とともに自己形成をしていかなければなりません。

意志を持ち誓い、「上機嫌」でいることが大切なことです。そのために必要なのが「礼節」と呼ばれるものです。

 参考文献:『アラン・幸福論』 合田 正人 著 NHK出版    

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