学ぶ意義とは・・・

さて、人生において問題に突き当たったり悩みを抱えたりしているときは、読書をとおして先人の知恵を学ぶことが重要です。ビジネスで成功をつかむには、日頃から書物で先人の知恵を吸収することが大切だと言われています。

読書することにより「へえ、なるほど」と、学んだノウハウを実践できるよう、心を動かせられた知識等をメモしておくといいですね。 読書とは「著者との対話」です。

著者の思考の過程をたどることにより、自分以外の視点で考えられるようになります。本を多く読んだ人は、多くの視点をもっています。

新しい企画やアイデアを出すときには、ひとつの視点に凝り固まっていては良質なアウトプットができません。視野が広い人間になるには、読書によって培われた知識を駆使し、さまざまな角度から検討し、、学びのアンテナを広げることが大切です。

周囲のあらゆることに関心をもち、ジャンルを偏らせることなくさまざまな種類の本に出合える機会を持つことは人生を豊かにしてくれます。

◆◇◆◇◆      ◆◇◆◇◆      ◆◇◆◇◆

福沢諭吉は学びにどんな影響を与えたか

明治初期に福沢諭吉は『学問のすゝめ』を出版しました。驚くことに日本中で知らない人がいないくらいの大ベストセラーになりました。

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という書き出しが有名です。本当はその後に続く「人間の貴賤は、学ぶか学ばないかによってできる」という内容の言葉のほうが重要です。

 実は、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言われていますが、実際には貴賤の差別がありました。「この人間の貴賤の差別は学ぶか学ばないかによって生じるのです」と、いうのが「学問のすゝめ」の趣旨です。

 諭吉の名言として後世に伝えるなら、「賢人と愚人との区別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」のほうが彼らしくていいと思います。

 「実際には、世の中はすべてが平等なわけではない」という現実的な見方が諭吉にはありました。  門閥制度を憎む諭吉には、「貴賤が生まれつきの門閥によって決まるのでは、よりよい世の中にはなりません。 学ぶか学ばないかの違いで決まる社会をつくろう」という思いがありました。

 そこで、そんな新しい平等な社会を先取りした姿を、『学問のすゝめ』の初編に書いて提案したのです。  明治初期のことですから、そんな社会が簡単に実現するとも思えなかったでしょう。

それにもかかわらず、諭吉は「そんな社会をつくろう」という書き方ではなく、「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」と断定的に書きました。

 そうした書き方をしたからこそ、読んだ人は「平等な社会とはそういうものなのだ」と思い、そこから学びの機運がぐっと盛り上がったのだと思います。

読書は心の栄養

社会に動脈硬化が起きているかどうかを判断する基準の一つは、「人民に読書が習慣化されているかどうか?」ということです。これは必ずしも絶対的な判断基準ではありませんが、そこにはかなりの相関関係があります。

 本を読むのが好きということは、「新しい世界を知りたい」「優れた人の話が聞きたい」「自分自身を高め、もつと良くしていきたい」という学ぶ意欲の表れでもあります。

その意味では、読書は学ぶ手法そのものです。現在の私たちは情報化社会の中で生きているわけですから、読書以外の方法でもいろいろなことを知ることができます。

 しかし、はたして「情報」は自分の本質にかかわる何かをもたらしてくれるでしょうか。「情報」には自分の脇をさっさと流れて過ぎていくという性質があると思います。

 スマートフォンにはニュースが続々と流れ込んできますが、ほとんどの場合、それを見ても自分自身には関係がないように思われます。そんなニュースを読むことは、本当の意味での「自分が変わる」学びにはならないでしょう。

 本当の意味で自分が変わる学びを得ようと思ったら、きちんとした本を読んで向き合うしかありません。  たとえば、プラトンはソクラテスとの対話の中から自分の思想をつくりました。

それと同様に、プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』を読めば、現代人でも感化を受けます。 吉田松陰は『留魂録』に「人間は何歳で死のうとも、それぞれの人生に四季がある」と書き残しました。

その冒頭には、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」(この身は滅んでも、大和魂はここに留めて置きたい)という辞世の句が書かれています。

 これを音読すると、吉田松陰の志が極まった型を意味する「狂」の情熱が自身の中にも入り込んでくるように気がしませんか。そうなれば、それはもう「情報」ではなく、一つの「出合い」であり「感化」です。

学びにとって「気づき」とは 

この世界に生きていることを「気づき」として祝福するものが俳句であると思います。俳句は何かに気づいたときにできるものです。それはほんの小さな出来事でも書きとどめる句です。

 幼児期に、絵本を読むことによって、世界をとらえる感性のアンテナがどんどん発達していきます。NHK「Eテレ」の『にほんごであそぼ』という子ども番組で、「ごもじもじ」というコーナーでは俳句のような五七五のリズムの言葉を募集していました。 

あるとき、「きょうの風は何色だろうね」という意味の句が子どもさんから寄せられ、感動を呼びました。

松尾芭蕉が天の川を詠んだ「荒海や佐渡によこたう天の川」の句を知ると、天の川が架け橋のように見えてきます。こういう経験が「気づきの連鎖」であり、「気づきの分かち合い」だと思います。

 また、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の歌に注目してみましょう。日本人にはずっと「花や紅葉」を美しさの象徴のように歌ってきた伝統があります。

しかし、この歌はそれらがない寂しさ、その荒涼感もまた美しいと、表現しています。 この歌を通じ、そうした美のあり方に気づくと、次に寂しい浜辺を見たときに美的な感情がわき上がってくることでしょう。

 感性も学びの蓄積によって耕されます。学びで感性自体が育ちます。 私たちは自分の気づきを他者と分かち合うことによって、この世界を祝福しながら生きることができます。「学び」には「誰かの憧れに憧れる」という側面もあります。

たとえば、モネが光の世界に憧れを持ったとするならば、私たちもその憧れに寄り添ってみる。モーツァルトがあのような音楽を美しいと思って憧れを持っていたとするならば、そのモーツァルトの憧れに共鳴しましょう。

より高いものに反応すればするほど、自分の世界をより豊かにしていくことかできるでしょう。

参考文献:『人はなぜ学ばなければならないか』 齋藤 孝 著 実業之日本社     

 ◆ エッセーの目次へ戻る ◆ 
 ◆ トップページへ戻る ◆