「凸、凹」の人生だから・・・

誰にでも人生について考えることがあるでしょう。うれしいこと、楽しいこともあれば、つらいこと、悲しいこともあります。そんな順境、逆境が繰り返されるのが人生です。それらを一切受けとめていくなかに、生きている実感もあると思われます。

苦境、難局、岐路つまり逆境は怯んだり, 怖れたり、避けたりせず、真っ正面から受けとめなさい、と禅は教えています。それが試練に向き合う「妙法」、すなわち、もっともすぐれた方法だとするのです。

そうすることにより、逆境はすばらしい経験の場になり、成長の糧にもなっていきます。もつといえば、逆境を楽しむことさえできる。もちろん、人生は「順境、逆境」ですから、逆境は必ず順境に転じます。

逆境を乗り越えることによって、ひとまわり大きくなった自分、一皮むけた自分だといっていいでしょう。自分自身を生きる充実感、心の豊かさ、喜びそれまでよりさらに高いレベルのものになるはずです。

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失敗は怖くない。むしろ、糧になる

人生でいちばん避けたいのは何ですか。そう問われたら、かなりの数の人が「失敗」と答えるのではないでしょうか。 そこで、失敗をどう受けとめるかが大切になるわけです。

受けとめ方のヒントをくれるのが、発明王といわれたトーマス・エジソンです。こんな言葉を残しています。 「わたしは失敗したことがない。

ただ、一万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」 失敗の受けとめ方としては、このエジソン流にまさるものなしです。そう、一万通りの発見(失敗)に導かれて、一万通り目の「成功」があるのです。

成功のカギになるのは失敗の分析

「あ~あ、やってしまった!」で気落ちしておしまいではなく、失敗の原因がどこにあったかを炙り出さなければなりません。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 プロ野球界のご意見番的な存在として、おおいにボヤいた故野村克也さんが座右の銘にしていたとされるものです。

もともとは肥前国平戸藩第九代藩主であった松浦静山の名で著した随筆集『甲子夜話』のなかに出てくるものです。

不思議の勝ちとは、たまたま得た勝利や偶然が重なった結果の勝ちなどをさすのでしょう。勝ちにはそんな勝ちがたしかにあります。しかし、負けにそれはありません。必ず、はっきりした原因があります。

不思議な失敗などないのです。分析すれば、その原因は明らかになってきます。そして、原因がわかれば、おのずと対処法が見えてきます。

進めていた仕事がよい結果に結びつかなかったというケースでも、準備段階から決着までのすべてのプロセスに問題があったということはないでしょう。

自分の能力の範囲内のことをしているだけであれば、失敗する可能性は低いはずです。能力を超える仕事に挑むから、失敗の可能性が出てくるわけです。そう、失敗したのは果敢にチャレンジスピリットを発揮したからなのです。

「凸、凹」こそ人生の醍醐味である

人生は山あり、谷あり、といわれます。シンプルな表現ですが、人生を語るにみごとに正鵠を射ています。平板、単調な人生などありません。 「凸、凹」だから人生はおもしろく、そこに人生の醍醐味があるのです。

徳川家康は「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」と、家康の遺訓として伝わるものです。稀代の戦国武将のこの言にしたがえば、人生には谷が多い、いや、ほとんどが谷である、ということなのかもしれません。

現実には谷ばかりがつづくことはありませんが、少なくとも、そのような腹づもりで、腹を括っておくことは大切だと戒めています。

谷を乗り切った経験は貴重です。経験によって人間としての厚みが増し、器量が大きくなるといってもいいでしょう。さらに、それまで気づかなかったことに気づくようになります。

たとえば、他人の痛みがわかる人とわからない人がいます。両者を分けているのは、厚みの差、器量の違いです。それによって、痛みに気づくか、気づかないかが分かれるのです。

三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人の子として生まれ、極貧生活を送ります。そんななかにあっても、勉学の機会を得て見聞を広め、その後、江戸に上ります。

しかし、父親が酒席で庄屋と喧嘩したことで投獄され、郷里に帰ってその赦免を訴えた弥太郎も投獄されます。釈放後は苗字帯刀を剥奪され、郷里を追放となるのです。

しかし、土佐藩に登用され、やがて事業をおこし、三菱財閥を築くにいたるまでも、凸凹がめまぐるしく繰り返されます。 凸凹をおもしろいと感じ、そこに醍醐味を見出していくのは、さすが心の在り様は素晴らしいです。

また、幕末に長州藩で奇兵隊を結成した高杉晋作は「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり」との辞世(諸説あり)があります。

高杉が詠んだのは前段、後段は病床にあった高杉の看病にあたっていた野村望東尼がつけ足したものといわれています。

「つまらない世の中であろうと、心のもち方ひとつで、おもしろく生きられるのだ。」というのがその意味でしょう。凸も、凹も、腹を据えて、心を前に向けて、受けとめていくことがいい人生を送れる秘訣のようです。

さらに「お蔭様」、「おたがい様」、「感謝」の気持ち

仏教の言葉「諸法無我」があります。人は誰でも人とのかかわりのなかで生きています。この世にあるものはすべて、関係性のうえに成り立っています。たとえば、夫婦の関係。夫は妻という存在があって、その妻との関係において、夫という存在になっています。

親子も、親は子どもとの関係のうえで親であるわけですし、子どもは親との関係において子なのです。

朝、人と顔を合わせたとき、肉親、知人、すべての人に、こちらから明るい声で「おはようございます」と声をかけたらどうでしょう。相手も笑顔で挨拶をしてくれるはずです。

挨拶のほかにも心地よさをつくり出してくれる言葉がありそうです。相手の心の負担をとり除くのに、「おたがい様」にまさる言葉はありません。 きわめつきは「お蔭様」もそのひとつでしょう。

「いい仕事したね」さあ、「お蔭様」の出番です。仕事で成果を上げたときには、周囲からそれを評価する声がかけられることにもなります。

かりに声をかけてくれた相手が、直接その仕事にかかわりがなくても、「お蔭様で」のひとことがあるのとないのとでは、相手の気持ちが大きく違ったものになります。

そのひとことで自分が感じた心地よさを、いつか何かのかたちで返そうと思うに違いありません。

参考文献:『人生は凸凹だからおもしろい』 枡野 俊明 著 光文社新書   

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