謙虚と素直に・・・

優れた経営者は、あらゆる職種においてまじめに働いている人である限り、すべての人からヒントを得ようとします。 たとえば、やり手の役員はもちろんのこと、いつもランチを食べに行くレストランのオーナーやウェイター、清掃従事者などです。

逆に言えば、学ぶことに貧欲だからこそ、自分が苦手なもの、不足しているものを持っている人から、学び取ろうとします。その姿勢こそが謙虚さとなります。 謙虚とは、たんに物腰が丁寧だったり、控えめだったりするのをいうわけではないのです。

自分の知らない世界に生きている、自分の知らない体験などに対して、恐れと畏れを感じるくらいでないと、本当には学べません。そうでなければ、「本気で知りたい」とは思わないはずだからです。

謙虚さが、学びのいわば入ロだとしたら、素直さは消化器です。せっかくの情報も、自分の少ない経験に無理矢理あてはめようとしたり、フィルターをかけたりしたら、自分が理解していること以上のことは修得できません。

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古典を読むときの落し穴

かつて、ある雑誌の編集長が、永年の実績のある優れた経営者に、「社員教育の要諦」を聞いた。その経営者は、短文一言で「社員を愛すること」。 一方、部下の教育に苦労する中間管理職に話を聞いた。すると、その中間管理職は、ためらいながら、こう答えた。

「正直に言って、あまりに仕事の覚えが悪い部下を見ていると、指導を諦めたくなるときがあります。『もうやっていられない』という心境ですね。

しかし、一晩寝て朝起きると、彼と上司、部下の関係になったのも何かの深い縁かなと思う。そして、考えてみれば、自分の若い時も『覚えの悪い部下』だったなとも思う。

すると、この部下のために、もう少し頑張ってみようかと思えるのですね……」さて、この二つのエピソード、どちらが、「人間力」を身につけていくために、参考になるだろうか。どちらが、「人間成長」という山道を登っていく者にとって、糧になるだろうか。

前者の経営者は、決して間違ったことを言っていない。 これに対して、後者の中間管理職の言葉は、未熟な人間として、励まされ、何かを学べる言葉である。

誰もが、一度や二度は、諦めそうになる。一晩寝た後、人間の心境は変わること。相手と出会ったことの縁を思うこと。自身の若き日の未熟さを振り返ること。この二人の人物が語った、二つの言葉。

一つは、優れた人間が、自身が登り到った高き山の頂を指し示し、「こ の頂に登るべし」と語る言葉。

一つは、心の弱さを抱え、遅き歩みながらも、高き山の頂をめざして一歩一歩登っていく人間が、「未熟な人間でも、このような心の置き所を大切に歩めば、少しずつでも登っていけるのではないか」との言葉。実は、古典と呼ばれるものには、「理想的人間像」を語る言葉と、「具体的修行法」を語る言葉が書かれている。

そして、優れた古典の中には、著者自身が、一人の人間としての未熟さと心の弱さを抱え、それでも、人間としての成長を求め、悪戦苦闘しながら山道を登っていくなかで書かれたものが少なくない。

例えば、『歎異抄』という古典。親鶯の思想を学ぶとき、多くの人が、この書から入っていく。しかし、これは、親鶯の書いた書ではない。それは、師である親鶯に付き従いながら、親鶯の思想を体得しようと修行を続けた弟子、唯円の書いたものだ。

そして、我々の胸を打つのは、人間としての弱さを抱えながらも、ひたすらに成長を求めて歩み続けた、その姿であり、自身の歩みの遅さに、ときに天を仰ぎ、溜め息をつきながらも、決してその歩みをやめなかった姿であろう。

古典を通じて我々が深く学ぶべきは、登るべき「高き山の頂」だけではない。その頂に向かってどのように歩んでいくか、その「山道の登り方」を学ぶべきであり、山道を登るときの「心の置き所」をこそ、学ぶべきであろう。

謙虚さと感謝の「逆説」

学者としてだけでなく、数多くの心理カウンセリングの経験を積んでこられた河合隼雄氏は「人間は、自分に本当の自信がなければ、謙虚になれないのですよ。」と語っている。

その静かな言葉の奥にある人間洞察の鋭さに、深い感銘を覚えたが、同時に、この河合氏の言葉は逆説的でありながら、たしかに真実であると感じた。 例えば、部下に対して横柄な態度を示す上司を見ていると、その心の奥深くから、自信の無さが伝わってくるときがある。

その意味で、この河合氏の言葉、「人間は、自分に本当の自信がなければ、謙虚になれない」は、真実であろう。 実際、世を見渡せば、「本当の自信がないため謙虚になれない人物」は、決して少なくない。いま、この一文を目にする読者の心にも、過去に巡り会った様々な人物の姿が浮かんでいるかもしれない。

しかし、筆者の自戒を込めて述べるならば、こうした鋭い人間洞察の言葉を、誰かに対する人物批評として使うことには、危うい落し穴がある。世の中には、パスカルの『パンセ』や、ラ・ロシュフーコーの『箴言集』を始め、鋭い人間洞察の言葉があるが、これらは、本来、「他人を評する」ための言葉ではない。それは、どこまでも、「自身の内面を見つめる」ための言葉であろう。

その姿勢で読むならば、我々は、この河合氏の言葉から、深い内省の時間を持つことができる。 例えば、仕事で壁に突き当たり、自分に自信が無くなっているとき、なぜか、周りに虚勢を張っている自分がいることに気がつく。

また、自分が価値の無い人間ではないかと悩むとき、なぜか、素直に人を誉められない自分がいることに気がつく。氏は、次の言葉を語った。人間は、本当の強さを身につけていないと、感謝ができないのですよ。

例えば、多忙を極める日々においても、部下に仕事を頼んだとき、相手が新入社員であっても、心を込め、「有り難う、助かったよ」と言える上司。その姿からは、心の奥深くの「静かな強さ」とでも呼ぶべきものが伝わってくる。

一方、人生において、自分が与えられているものに感謝することなく、自分が与えられていないものに対する不平や不満を漏らし続ける人物を見ていると、どこか、心の弱さを感じる。 では、どうすれば、我々は、その「自信」や「強さ」を身につけることができるのか。

真の自信と真の強さ

自分より若い人や立場の弱い人に対しても、決して驕らず、謙虚に処することを心掛けていると、自然に、心の深いところに「静かな自信」が芽生えてくる。

また、誰かとのトラブルが起こったとき、その相手や出来事に対して、「ああ、の出会いも、出来事も、自分の成長に必要な何かを教えてくれている。有り難い」と、心の中で感謝することを心掛けていると、心の深いところに「静かな強さ」が生まれてくる。

自然そして、この「静かな自信」と「静かな強さ」。それこそが、我々が、生涯をかけて身につけていくべき「真の自信」であり、「真の強さ」に他ならない。

参考文献:『深く考える力』 田坂広志 著 PHP新書

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