よい運気を・・・

どんな人でも生きていればさまざまな出来事が起こります。このとき、それをどのように捉えるかはその人次第です。 トイレに「きれいに使っていただいて、ありがとうございます」と書かれているのを見たことがあるでしょう。

「きれいに使え」という命令よりも感謝の言葉のほうが訴求する力があります。 肯定的な人は物ごとの良い面を捉えて「良いイメージ」に結び付けます。それを実践するとき、感謝と感動を引き出す言葉をよく発します。

普段から積極的に「ありがとう」の言葉を口にすると、明るく、前向きな気持ちになります。 過去にとらわれず、現状の出来事に真摯にとりくみ、小さなことでも喜びを感じ、感謝することを怠たらず、どんなことが起きても、前向き捉えて、笑顔で対処する人は、運を引き寄せます。

つまり、ポジティブな想念を持つと、ポジティブな出来事や良い出会いを引き寄せ、良い運気を引き寄せると言われています。

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「良い運気」を引き寄せる

このためには、次の「三つの感」が大切です。 第一は「感嘆」、第二は「感謝」、第三は「感動」の言葉です。

第一の「感嘆」

誰かの良いところを褒める言葉のことです。ただし、この「褒める」ということについては、近年、マネジメントを効果的に行うために「褒める技術」の重要性が語られ、様々な形で「いかに褒めるか」「どのような褒め言葉を使うか」が語られていますが、「褒める」ということは、そういう意味ではありません。

「褒めることによって、相手のモチベーションを上げたり、相手との人間関係を良くする」という操作主義的な行為ではありません。 昔から、日本は「愛語讃嘆」という言葉が語られますが、「褒める」ということの意味は、この言葉の如く、相手の良いところ、素晴らしいところを感じたら、ただ、無条件に、本気で、心の底から「褒める」ということであります。

すなわち、「感嘆の言葉」「褒める言葉」とは、あれこれの操作主義的な意図からではなく、ただ自然に感嘆の言葉が口を衝いて出ることに他ならないです。

第二の「感謝」

心から「有り難い」と思って語る言葉です。最も分かりやすい例が、誰か他人から親切にされたとき、心を込め、思いを込めて「有り難うございます」と語ることであります。

一方、商売や営業のときに慣用句として語られる「有り難うございます」は、通常、心や思いが込められていないため、決して、我々の無意識をポジティブにしません。

しかし、もし、そうした商売や営業の場面であっても、心を込め、思いを込めて「有り難うございます」を習慣とするならば、それは確実に、我々の無意識の世界をポジティブにしていきます。

重要なことは、この「感謝」の言葉を語るのは、誰かから親切を受けたときだけではありません。様々な人生の出来事に対して、「有り難い」と口に出して祈ることも大切なことであります。

例えば、タクシーを飛ばして駅に向かい、発車間際の列車に間に合ったときなど、「有り難い! 間に合った」と、心の中で言葉にして語ることも大切なことです。

また、平凡な日常の生活においても、家族が食事をするとき、自然に、「こうして、家族そろって食事ができることは、有り難い」と語ることも大切な習慣です。

そして、こうした形で、人生の様々な出来事への「感謝」を習慣として続けていると、自然に、幸運に見える出来事だけでなく、不運に見える出来事に対しても、「有り難い」と祈るようになっていきます。

第三の「感動」

素晴らしい自然、芸術などに触れたとき、その感動を表現する言葉です。 例えば、「素晴らしい星空だ!」「爽やかな風だ!」「愛くるしい!」「傑作だ!」「最高の夕焼けだ!」といった言葉です。

日常生活において意識的に使う

最初は、美しい、気持ちのよい、素敵などの言葉を、意識的に使用することを心掛けます。それが「習慣」になったとき、自然に口を衝いて出るようになっていきます。

ポジティブな言葉が、我々の無意識の世界に浸透するようになっていくと、同時に、無意識の世界のネガティブな想念を浄化するようになっていくでしょう。なぜ、「言葉」を発するだけで、「心」が変わるのかこの「言葉」と「心」の関係を考えるとき、もう一つ、我々が理解しておくべき大切なことがります。

身心一如とは

それは、仏教思想で語られる「身心一如」という考えがあります。 それは、宗教の一つの目的は、我々の「心の在り方」を変えることでありますが、実は、「心」というものに直接に働きかけて変えることは極めて難しいです。そのため、多くの宗教においては、まず、日常の「所作動作」や「言葉遣い」を変えることによって、「心の在り方」を変えていくという技法が用いられています。

日常、何かを語るとき、「心」と「言葉」を一致させる修行をすることです。「心」が「身体」の姿勢を同様に、「言葉」を広義の「身体」と考えるならば、「心」の状態が、語る「言葉」を変えるだけでなく、語る「言葉」が「心」の状態を変えていきます。

これを分かりやすく言えば、我々は、「有り難い」という心を抱くから、「有り難う」という言葉を発しますが、逆に、「有り難う」という言葉を発するから、心が「有り難い」という状態になるのも、一面の真実です。

「有り難うございます」という言葉を語るときは、心も「有り難い」という思いを抱いて語るようにすることです。誰かを「素晴らしい」という言葉で褒めるときは、心にも「素晴らしい」という思いを抱いて語るようにすることです。

こう述べると、当たり前のことを述べていると思われるかもしれませんが、実は、世の中を見渡すと、この「心」と「言葉」が一致していない人は決して少なくないのです。

作り笑いをしながら「有り難うございます」と言う人。「大丈夫」と相手を許しているようで目が笑っていない人。「素晴らしいですね」と心にも無いお世辞を言う人。心とは全く逆の言葉で相手に接する「面従腹背」の人等々。

こうした人は、決して少なくありません。こうした「言葉」と「心」が分離した姿勢は、人間の誠実さという意味でも残念なものがあります。そうした姿勢が日常の習慣となっている人は、ここで述べる「身心一如」の理を用い、「言葉」によって無意識の世界に働きかけようとしても、あまり上手くいきません。

逆に、日々の生活や仕事において、「言葉」と「心」を一致させる修行をしている人は、この「身心一如」の状態が強まっていくため、「日常言葉」によって無意識の世界を浄化することが容易になっていきます。

参考文献:『運気を磨く』 田坂 広志 著 光文社新書

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