正しい道理の富を・・

 2021年大河ドラマ「青天を衝く」の主人公である渋沢栄一は、日本に近代的な経済システムを導入しました。近代資本主義の父となることができたのは、少年時代から高い志を持って「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けたからではないでしょうか。

 渋沢栄一が世に出るきっかけとなったのは、1867年にフランスの首都パリで開催された万国博覧会でした。将軍代理として参加した徳川昭武(徳川慶喜の弟で当時14歳)のお供の一人として参加しました。

パリへ渡る船の中でフランス語の勉強を始め、フランスについてからも語学教師について学び、1か月ほどでフランス語会話を習得してしまいました。

 資本主義システムをはじめ多くのことをフランスで学ぶことができたのは、まず、はじめに語学力を身につけるという先見の明があったからに違いありません。渋沢栄一は、たえず学び続け、努力に努力を重ねた人でした。 渋沢栄一こそ生涯学習のこよなきお手本ではないでしょうか。

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商工業の地位を向上のために

明治33年(1900)還暦を迎えた渋沢は、あらためて、実業界時代の来し方をふり返った。この30年近く、それは熱心に事業に打ちこんできた。 実業界に入ったといっても、財産を蓄積することが目的ではなく、新たな事業を興すことが自分の最大の目的だった。

その当時を顧みると、日本の政治、教育、軍事は、海外の新たな知識を採り入れ、まさに日進月歩で進歩した。にもかかわらず、商工業は、政治の下僕となっていた。

渋沢は、そのことだけがどうにも許すことができない。どうにかして、商工業の地位を高めたい。その祈念こそが、自分を突き動かしてきた。だからこそ、政治とはつねに一線を画し、政府関係のことにはなるべく近寄らなかったのである。

それは自立して成功したかったからである。事業がどれほど果たせたかといえば、それは、じつに微々たるものにすぎない。しかし、商工業者がともに手をたずさえて地位をあげ、いかに社会で大事な存在かをわかってもらえるように、自分の力の限りを尽くした。

「儲け」より「信用」が第一

渋沢は、株式会社は、重要な経済機関のひとつとした、その必要性を十分に認めていた。だからこそ、投機事業ならびに類似するものには、微塵とも手を染めてはならないと決心していた。

このようなことがあっては、世間の信任に背くことになる。自分の職責を全うすることが最優先であった。 渋沢が、確実に利益が上がることを知りながら、低落した鉄道債券を一枚も買わなかったのは、この理由からであった。

これは、渋沢が、明治6年に実業界に身を投じてから、終始一貫してきた。渋沢は、この点は、自分自身で誇りに思っていた。

どんな妙薬でも、働くことには及ばない

渋沢の愛読書の論語から「葉公、孔子を子路に問う。子路対えず。子曰く、女なんぞ日ざる。その人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以って憂いを忘れ、老のまさに至らんとするを知らずと、しかいう」を引用して、

「楚の国の葉県知事が、孔子の弟子である子路に、孔子とはどのような人物かをたずねた。子路は、答えられなかった。それを知った孔子は言った。『今度もし同じようなことを聞かれたならば、こう答えるがいい。あの方は、学問に没頭したときには食事も忘れてしまう。

学問の楽しみを味わっては、それまでの苦労をいっぺんに忘れてしまう。そして、そこまで老年が近づいているのに、そのことに気づかずに、道に励み休むことを知らないひとだと」 人間は、自分の主義主張や仕事に熱中するときには、食事も憂いも忘れてしまう。

働くということ。このことが、人生にとって第一の楽しみである。たとえ不老不死の薬があろうとも、働くという薬には勝つことができない。

渋沢の経験では、貧乏暇なしのたとえにあるように、貧乏しても立ち働いていれば病気をする暇さえない。

ましてや、歳をとる暇もない。楽隠居して日がな一日を無為に送っているひとは、かえって、若くして老いこぼれてしまう。刀剣でも包丁でも、使用しなければ錆びてしまうのと同じである。

若いときから引きつづいて立ち働き、老年になってもやめずにいれば、かならずそのひとはすでに元気よく活動してゆけるものである。

世間では、渋沢のことも、生まれながらにして優れた記憶力をもっているかのようにいっているらしい。

しかし、それは、生まれついてのものではない。若いときから欠かさず、毎晩寝る前に、その日にあつたことをすべて思い起こす。ひとつひとつチェックしてから就寝する。

これは、反省考案の方法で、精神修養に役立つだけでなく、記憶力を養うことにも大きな効果がある。渋沢が、多少なりとも人より優れた記憶力があるとすれば、この習慣によるところが大きい。

ゆるぎなき信念

明治42年(1909)、渋沢は、数え年で、古希である70歳をむかえた。これを機に、第一銀行、東京貯蓄銀行、銀行集会所などを除いて、80あまりの関係事業を辞した。

しかし、その本旨は、国民の生活水準を引きあげる「台所」の向上発展にあった。自分の趣味生活に閉じこもって老後を楽しむこともなかった。90歳をむかえても、渋沢の生きる姿勢は変わることはなかった。

昭和5年12月渋沢は風邪のために寝ていた。さすがに90歳をむかえて家族は心配していた。そんなある日、20名ばかりが、渋沢を訪ねてきた。全国方面委員と社会事業家の代表者であるという。

主治医である林正道も、妻も、引き止めた。しかし、渋沢は、どうしても会うという。林先生は、しかたなく、「五分だけ」と約束して面会を許した。

用件は、政府が制定した救護法についてだった。制定したはいいものの、予算の裏づけがないために救護が実行されない。このために、飢えと寒さで20万人が苦しんでいるという。 「わたしは、この年になるまで、およばずながら社会事業に尽くしてきたつもりです。

みなさんのお気持ちもよくわかります。どれだけお役に立てるかわかりませんが、できるだけのことはしましょう」 渋沢は、さっそく、当時の大蔵大臣井上準之助、内務大臣の安達謙蔵に連絡をとった。いまから時間をとってほしいと頼んだ。

ふたりの大臣は、さすがに、高齢でしかも風邪をひいている渋沢に来させるわけにはいかなかった。渋沢邸をおとずれると伝えた。

だが、渋沢はいった。 「こっちからお願いすることだから」心配したのは、まわりの家族であった。面会でさえ5分が限度なのに、外出など許されるわけがなかった。林先生も、強く引きとめた。

渋沢は、静かに答えた。 「先生のお世話で、こんな老いぼれが養生しているのは、せめてこういうときの役に立ちたいからですよ。もしこれがもとでわたしが死んでも、20万人の不幸なひとが救われれば本望ですよ」そういうと、渋沢は、玄関前につけられた車に乗りこんだ。

精神的、道義的未発達を憂う

渋沢は、よく語っていた。 「人間を辞職するわけにはいかない」渋沢は、さすがに風邪をひいたあとに健康をとりもどしたが、どことなく元気のない日がつづくこともあった。

息子の秀雄が見舞いの言葉を口にすると、渋沢は答えた。 「格別のこともないのだが、どうも気持ちが晴れるというところまではいかない」籐の安楽椅子に体を横たえて、90を越した老人が眼鏡をかけずに和とじの漢籍を読んでいた。

昭和6年11月11日、明治維新以後の物質的発展には一応満足したが、精神的、道義的未発達、あるいは、頽廃には、91歳で逝去するまで不満や憂慮の念を抱きつづけた。

参考文献:『渋沢栄一』 木下英明 著 三笠書店知的生きかた文庫

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