■思いを・・・
誰しも、願い実現したとの思いで、何かしらの仕事を行っているとはずです。成功するためには行動し、気付きを得るでしょう。その結果改善、工夫を行うことを繰りかえしていくようです。
その過程で、いろいろな人から素直に意見を聞き、それをもとにして方針をかえるなど、辛抱強く、諦めないで遂行することが重要になります。 人間は、みなそれぞれに繁栄、平和、幸福、すなわち身も心も豊かに、仲よく幸せに暮らしたいと願っています。
いいかえれば、よりよき共同生活というものの実現を願いつつ生きているのではないかと思われます。ところが、現実にそういう姿がスムーズに実現されているかというと、必ずしもそうとはいえないように思われます。 その原因はいろいろあろうかと思いますが、基本的には、個々の生き方自体に問題があるのではないでしょうか。
お互い人間がみずからの願いを実現するためには、それを実現するにふさわしい考え方、態度、行動をあらわしていくことが肝要だと思いますが、その根底をなすものが、素直な心ではないかと思うのです。
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私心にとらわれない
一般的に、私心というか、私利私欲を求める心というものは、お互い人間が生きているからには当然あるもの、当然働くものでありましょう。 問題は、その私心にとらわれ、私利私欲の奴隷になってはならないということです。
私心にとらわれてものを考え、事を行なうということになると、やはりいろいろと好ましからざる状況がおこってくると思うのです。
何か一つの商売をする場合でも、私心にとらわれて商売をしたならば、「他に損害を与えても自分だけ儲けたらいい」などといった姿勢に陥り、世間に大きな迷惑を与えかねません。そしてそれはやがて自分自身の信用を傷つけ、みずから墓穴を掘ることにもなりかねないでしょう。
商売というものは、世の多くの人びとおおやけを相手に行なう公のものであって、私心にとらわれて行なってはならないものだと思います。
自分の利益と取引相手なりお客の利益を同時に考え、よりよきサービスを心がけていくことが重要です。そしてそういうところに、商売の発展というものがもたらされ、本当に世の役に立つ商売といったものが営まれていくのではないでしょうか。
耳を傾ける
戦国時代の武将、黒田長政は、"腹立てず"の異見会という会合を月に二、三度ずつ催していたといいます。参加者は家老をはじめとして、思慮があり、相談相手によい者、またはとりわけ主君への忠誠心の高い者など六、七人であったということです。
その会合を行なう場合には、まず長政から参加者に対して次のような申し渡しがあります。「今夜は何事をいおうとも決して意趣に残してはならない。他言もしてはならない。もちろん当座で腹を立てたりしてはならない。思っていることは何でも遠慮なくいうように」。
そこで一座の者も、それを守る誓いを立てた上で、長政の身の上の悪い点、家来たちへの仕打ち、国の仕置きで道理に合わないと思われる点など、何でも底意なく申し述べます。
その間に、長政に少しでも怒りの気色などの見えるときは、参加者が「これはどういうことでございますか。怒っておられるように見えます」という。そうすると長政は、「いやいや、心中に少しの怒りもない」と、顔色を和らげる。こういう姿であったということです。
そして長政は、その遺書の中にも、「自分がしてきたように、今後も異見会を毎月一度は催すようにせよ」と書き残していたということです。 戦国時代の武将といえば、とかく戦場で全軍に下知をとばし、部下を叱咤するといった激しい姿が想像されます。また城にあってもいわゆる生殺与奪の権をにぎっているこわい殿様というイメージもわいてきます。
だからもし万一家来が主君に対して諌言するというようなことになれば、その家来は切腹を覚悟で諌言をしなければならないわけです。切腹を覚悟することは、命をすててということです。それだけに、よほどの名臣ならともかく、ふつうの場合は、なかなか諌言の必要を感じてもできなかったであろうと思われます。
しかし、そういうことでは、主君の耳には都合のいいことしか入ってこないでしょう。これでは国が亡びることにもなりかねません。長政はそのことをよくわきまえて、それで、都合の悪いこと、耳に痛いことでも聞けるようにという会合をもったわけでしょう。
長政がそういう姿の会合を続けていたということは、一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと思われます。
すべてに学ぶ心
何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、そのような心がまえをもって人生をすごしていくならば、月日とともにいろいろなことをおぼえ、学びとっていくこともできるでしょう。
だから、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。
そういう際にも、勉強する態度というか、学ぶ心というものを保っていたとするならば、相手のふとしたことばの中からハッと感じとることを見つけ出すこともあると思います。
自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中からいろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。
学ぶ心がなければ、何を見ても、何をしても、ただそれだけのことに終わってしまうでしょう。人と会って話をしても、人びとの姿、世の動きなどを見ても、ただ話をするだけ見るだけに終わってしまう場合が多いのではないでしょうか。
たとえば、思わず何か人の気にさわるようなことを口に出していってしまったとします。この場合、相手と気まずくなったり、あるいはケンカになったりもしかねません。
学ぶ心をもっている人ならば、自分の非を悟って直ちにわびるでしょうし、あのようなことを口に出していってはいけないのだな、ということを自分なりに悟り、二度とそういうことをいわないよう心がけるようになるでしょう。
逆に、他の人が何かすぐれた方法を実行していたときや、いいアイデアをもっていた場合などでも、それに気づきにくく、したがって自らにとり入れて活用しないでしょう。
だから、学ぶ心というものがなければ、結局は、自分自身が成長、向上しないばかりでなく、自分の属する共同生活の向上、発展を妨げてしまうのではないかと思います。こういう学ぶ心というものを養っていくことが、人間にとって非常に大切なことの一つといえると思います。
学ぶ心があれば、この世の中のいっさいの人、物、あらゆる物事のすべてが、自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。 素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、吸収すべきは何でも吸収する心であります。
したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。すでに字が書かれているから、もう絵をかいてはいけない、というようなこともありません。
また、すでに全面にわたって字が書かれているから、書き足す必要はもうない、というようなこともないわけです。 字でも絵でもすべてを新しいものとして認め、そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。
素直な心になれば、おのずと、人といわず物といわず、また物事いっさいに対して、つねに学ぶ心で相対するようになると思うのです。
人と話をすればその話の中から何らかのヒントを得るとか、また何らかの物、たとえば路傍の草木を見てもその動きや姿の中から何かを感じるとか、日々これ勉強、学びである、といったことにもなっていくのではないでしょうか。
素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。すべてにおいて学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も生まれてくるでしょう。素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さなどにあらわれてくるのではないかと思います。
参考文献:『素直な心になるために』 松下幸之助 著/PHP文庫