学び直し

現在、人工知能(AI)やロボットといった機械が、産業を大きく変革していく時代になろうとしています。 そのような、大きな変化が継続的に起こっている世界において、一度学んだコンセプトやフレームワークに執着し続けるのは、怠惰を通り越して危険ですらある。

このような世の中にあっては、自分が過去に学んだ知識をどんどん償却しながら、新しい知識を仕入れていくことが必要になります。そのような時代において、「独学の技術」が重要性を増すであろうことは、容易にご理解いただけることと思います。

こういった世界に生きる私たちは、常に「昔とった杵柄」を廃棄し、常に虚心坦懐に世界を眺めながら、自分が学んできたことを消去し、あるいは新しく学んだことで上書きしていく、つまり「再」学習ではなく「反」学習つまり、一度学んだことをまっさらにし、学習し続けることが求められています。

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関連分野を固めて読む

ある分野の書籍を一時期にまとめて読むと1冊1冊の本の内容が相互に連関し始め、より強固に頭の中に定着するようになります。このとき、本と本とのあいだにはメタファー(隠喩)の関係と、メトニミー(換喩)の関係の2種類があることを意識すると知識の構造化を進めやすいでしょう。

日本語では隠喩も換喩もひっくるめてメタファーと言われたりしますが、厳密にはこれら二つは別の構造です。たとえばヴェネチアを「ゴンドラの街」とたとえるのはメトニミーになりますが、ヴェネチアを「アドリア海の宝石」とたとえればメタファーになります。

ヴェネチアに関する本を読んでヴェネチアに興味が出てきたら、次にゴンドラについて調べてみる、というのがメトニミー的展開の読書で、本と本とのあいだが縦の階層構造を形成することになります。

初学者向けの本から入って、より深く勉強したい領域については専門書をひもといてみるというアプローチも、メトニミー的読書と言えるでしょう。それぞれの本の内容が階層構造になるので全体像を掴みやすいというのがメトニミー的読書の利点です。

メトニミー的展開の利点は2つあります。純粋に自分が興味を持った対象をその時、その場で追いかけてドリフトしていくことになるので興味を維持しやすく、したがって定着効率が高いというのが1点目の利点です。

2つ目の利点は、展開を動機付ける元になった本と、展開先の本とが構造関係を形成するので、濃く太い理解が促進されるという点です。先ほどの例では、リーダーシップに関する本でアムンゼンに興味を持ち、次にアムンゼンの伝記を読むという流れになりますから、リーダーシップ論の枠組みからアムンゼンの行動を分析、理解するという、一段深い読書体験が可能になるわけです。

一方、メタファー的展開では読書の対象となる領域は、どんどん横に展開していくことになります。リーダーシップ論を読んで南極点到達に初めて成功したアムンゼンに興味を持ち、次にアムンゼンの南極探検記に目を通してみる、といった展開がメタファー的展開の読書になります。

「教養主義の罠」に落ちない

教養の習得それ自体を目指さない方がいいでしょう。大事なのは、教養の習得によって「しなやかな知性」を育むことであり、さらにはそれによって「人生の豊かさ」をまっとうすることでしょう。この目的に照らして考えてみれば、頭でっかちに教養そのものを求めていくとは、むしろ逆効果となることも考えられます。教養を「仕事の成果の埋め合わせ」に用いないということです。

単純に「仕事ができる人」と「仕事ができない人」を比べると、後者に該当する人が、そのコンプレックスを埋め合わせられるような別の評価軸がないかと考えたとき、教養というのはとてもパワフルな競争軸として浮かび上がってきます。

仕事ができる人は大概の場合、非常に忙しいので分厚い古典文学や難解な哲学書なんかを読んでいる暇がないのです。仕事と教養がトレードオフになっています。教養は多くの仕事ができる人にとって急所だということです。

仕事ができない人たちが、自分の立ち位置を変えるために「教養主義」に突っ走るのは、一見すると合理的に思えるかもしれませんが、そうではありません。教養は頭でっかちになるだけで、人生の豊かさは増えない、むしろ偏屈で扱いにくい人間になっていくだけです。

前漢時代の歴史家である司馬遷は、その著書「史記列伝」の中で「知ることがむつかしいのではない。いかにその知っていることに身を処するかがむつかしいのだ」と指摘しています。世の中には「知っていること」自体を一種のファッションのようにひけらかして悦に入っている人で溢れていますが、司馬遷がかつて指摘したように、大事なのは「知っていること」ではなく、それを「人生の豊かさ」に反映させることでしょう。 /p>

情報は量より「密度」

現在は、晴報がオーバーフローの状態にあるので、システムのボトルネックはインプットされる晴報の量よりも、それを抽象化構造化する処理能力のキャパシティにあります。

いたずらにインプットを増やすよりも、将来の知的生産につながる「スジのいいインプット」の純度を高めることです。「量よりも密度が重要になる」ということです。 世の中に垂れ流されている情報のほとんどは、誰それが離婚したとか浮気したとか、そういう「自分の人生にとってどうでもいい情報」であることがほとんどです。

情報には価値がある、と考えられがちなのは、恐らく情報処理におけるボトルネックが「情報の量」だった時代の名残なのでしょう。しかし現在は、情報処理のボトルネックは、「情報の量」から「情報処理のキャパシティ」に移ってきています。

ビッグデータという名称から、「データの量」にあるように見えるわけですが、誰にでもアクセスできる大量のデータから、どうやって自分にとって意味のある洞察を抽出できるかという「情報処理の能力」がキーになります。 個人にも、むしろ積極的に情報は遮断して、自分の持っている情報処理の能力を、意味のある洞察や示唆に得られる領域に集中することです。

「問い」のないところに学びはない

ストックを厚くしていくためには、恒常的に一定量のインプットを継続し、それらを整理しながら定着化させていくことが必要になります。 「どうやってインプット量を維持し続けるか」という点と「どうやって定着化を図るか」の2点が問題として浮上してきます。この2点を解消するためには、常に「問い」を持ってインプットに臨むことです。

好奇心には一種の臨界密度があります。好奇心は質問をたくさん持っているということですが、質問は、理解していないから生まれるのではなく、わかっているからこそ生まれます。

学ぶことでわかっている領域の境界線が宇宙に向かって少しずつ広がっていくと、「未知の前線」もまた広がることになり、質問の数はどんどん増えてきます。

万能の天才と言われたレオナルド・ダ・ヴィンチは、膨大な量のメモを残しています。多くのスケッチや考察が書かれています。そのノートの中の一節に、こういう文章があります。

食欲がないのに食べると健康を害すのと同じように、欲求を伴わない勉強はむしろ記憶を損なう。 多方面にわたって知的な業績を残した「知の怪物」が、勉強の最大のキーとして「知りたい、わかりたいと思う気持ち」を挙げているのです。

効率的な学びを継続するためにも、「問い」を持つことが重要だということはわかったとして、では「問い」を持てるようにしていくには、まずは日常生活の中で感じる素朴な疑問をメモする癖をつけるといいでしょう。「ふっ」と思った疑問や違和感をしっかりと言葉にしたためる、その瞬間の気持ちをうまく掬い取れれば、それでいいということです。

しかし、実はこれがなかなか難しい。というのも、ほとんどの「問い」は白昼夢のように瞬間的に心に浮かんで、すぐに消えてしまうからです。多くの人は、心に浮かんだ「問い」をメモしなさいと言われても「問いなんて浮かんでこない」と思われるのではないでしょうか。 絶対にそんなことはありません。

それは「浮かんだ問い」をきちんと捕まえられていないからです。最初は難しいと思うかもしれませんが、繰り返しやっているうちに「問いが浮かんだ瞬間」に意識できるようになってきます。この「心に浮かんだ問い」をきちんと頭で捉える能力というのは、知的戦闘力の根幹をなす能力になるので、繰り返しやって鍛えてほしいと思います。

参考文献:『独学の技法』 山口 周 著/ダイヤモンド社

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