■心の鏡を・・・
誰しも「自分を磨きたいと」との願望があります。そのために、人生の経験を通じて、自分という人間を成長させ人間力を高め続けます。 「古典を学び、理想的人間像を探ること」とよく言われますが、この様に抽象的な表現では、具体的な方法が曖昧になり、自分を磨くことは非常に難しくなります。
古典の人間像はあまりにも、高いレベルあるため、その修得は不可能に近いでしょう。それは、登山を始めて、エレベストを目指すに等しいです。それよりも、具体的修行法を学ぶことが近道です。 たとえば、山道の登り方を学び、日常の仕事や生活で、地道に実践していくことです。
「我欲や私心を否定しない」、「心の中で自分の非を認める」、「自分から声をかけ、目を合わせる」、「心の中の「小さなエゴ」を見つめる」、「その相手を好きになろうと思う」などを実践していくことを心得ることのようです。
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人間力を養う
「人間力」は、どのようにすれば身につけることができるのか? その一つの方法として、多くの識者が薦めるのが、古今東西の「古典」と呼ばれる書を読むことである。 古典を読み、そこに書かれてある「人間として、かくあるべし」という「理想的人間像」に深く共感する。
そして、その人間像に近づこうと、日々の仕事や生活において努力する。しかし、すぐに人間としての未熟さが現れ、そうした人間像とは程遠い自分の姿を見て嘆息する。 第一の誤解は、古典を読むとき、そこから「人間として、かくあるべし」といった「理想的人間像」を学ぼうとすることである。
古典からは「具体的修行法」を学ぶ
大切なことは、「いかにして、人間として成長していくか」という「具体的修行法」を学ぶことである。特に、その修行法の要諦としての「心の置き所」を学ぶことである。
もとより、古典から「理想的人間像」を学ぶことも大切であろう。しかし、どれほど「人間として、かくあるべし」を学んでも、そうした人間へと成長していく「具体的修行法」を学ばなければ、我々は、一歩も前に進んでいくことはできない。
これは、「人間を磨く」、「人間力を高める」ということを「山登り」に喩えてみれば、容易に分かることである。 一人の未熟な人間が多くの古典を読み、人間としてめざすべき「高き山の頂」を心に刻むとしよう。
しかし、いかにして山の麓から、その山の頂めざして歩んでいくかという「山道の登り方」について学ばなければ、その山の頂に到達することはおろか、山道を登っていくことさえできない。
ある雑誌の編集長が、永年の実績のある優れた経営者に、「経営の要諦」を聞いた。その経営者は、短く、一言を語った。 「社員を愛することです」
一方、ある雑誌の記者が、部下の教育に悪戦苦闘する中間管理職に、その苦労談を聞いた。その中間管理職は、ためらいながら、こう答えた。
「正直に言って、あまりにも仕事の覚えが悪い部下を見ていると、ときおり、その部下の指導を諦めたくなるときがあります。"もう無理だ"という心境ですね。しかし、一晩寝て、朝起きると、なぜか、彼と上司、部下の関係になったのも、何かの深い縁かなと思うんですね。
考えてみれば、自分の若い頃も、覚えの悪い部下だったかなとも思うんです。すると、不思議なことに、もう少し頑張ってみようかと思えるんですね」 どちらが、山道を登っていく人間にとって、糧になるだろうか? 答えは、明らかである。
前者の経営者は、決して間違ったことを言っていない。「社員を愛する」。それは、誰もが認める「人間として、かくあるべし」の姿であろう。 しかし、こうした言葉を聴かされても、一人の未熟な人間としては、「それは分かるが、しばしば目の前の一人の社員を愛せない心境になるから、苦しんでいる…」と呟きたくなるのではないか。
これに対して、後者の中間管理職は、そうした未熟な人間として、励まされる言葉であり、何かを学べる表現である。 この言葉は、単に「職場での上司、部下」の人間関係だけでなく、「学校での教師、生徒」の人間関係や、「家庭での両親、子供」の人間関係においても、糧となる言葉であろう。
前者の経営者は、優れた人間が、自身が登り到った高き山の頂を指し示し、「この高き山の頂に登るべし」。後者は、心の弱さを抱えながらも、遅き歩みながらも、高き山の頂をめざして一歩一歩登っていく「未熟な人間でも、このような心の置き所を大切に歩めば、少しずつでも登っていけるのではないか」。
実は、古典と呼ばれるものには、「理想的人間像」と「具体的修行法」を語る二つの種類の内容が書かれている。 しかし、未熟さと心の弱さを抱えて歩む。我々にとって、真に励ましとなり、糧となるのは、後者の言葉である。
「我欲」や「私心」を否定せず、ただ静かに見つめる
第二の誤解は、何か? それは、多くの古典が語っている「我欲を捨てる」「私心を去る」といった言葉を、素朴かつ表面的に受け止め、自分の中の「我欲」や「私心」等の「小さなエゴ(自我)」を、否定し、捨て去ろうと努力することである。 では、なぜ、これが誤解か?
我々の心の中の「小さなエゴ」は、捨て去ることはできないからである。 例えば、同僚が先に昇進したとき、心の中で「自分は、同僚の昇進を妬むことなどしない」。しかし、数か月後、その同僚が病気で休職になったとき、心の奥に、それを密かに喜ぶ自分が現れる。
そして、さらに怖いことは、「我欲を捨てる」、「私心を去る」と語っている自分自身が、自分の心の中で蠢く、「小さなエゴ」に気がつかないことである。 なぜなら、我々の心の中の「小さなエゴ」は、ときに、「小さなエゴを捨てた高潔な人間の姿」を演じて、満足を得ようとすることさえあるからだ。
このように、我々が、自分の心の中の「我欲」や「私心」という「小さなエゴ」を、素朴に否定し、捨て去ろうとしても、ただ、ひととき、それを心の表面から抑圧するだけで、いずれ、その「小さなエゴ」は、心の奥深くで密やかに動き出す。 そして、この「小さなエゴ」は、ときに、「私は、小さなエゴを捨てた自分自身だ」という姿さえ演じて現れてくるときがある。
その「小さなエゴ」が、心の奥深くで動き出し、ときに、功名心となって現れるとき、それを否定することもできないとすれば、どうすれば良いのか? 重要なことは、嫉妬心、虚栄心などの「小さなエゴ」に処する方法は、ただ一つである。ただ、静かに見つめること。それが、唯一の方法である。
自分の中に様々な人格を育てる
第三の誤解は、何か? それは、古典を読むとき、我々がめざすべき人間像として、一つの理想的な「統一的人格」を心に描き、その人間像を追い求めてしまうことである。 それを象徴するのが、「裏表のない高潔な人物」といった言葉である。
それは、「誰に対しても、裏も表もない一つの人格で接し、決して悪しきことをせず、誰からも尊敬される人物」といった意味の言葉である。 しかし、では、実際に、我々は、そうした「裏表のない高潔な人物」になれるのだろうか?
現実に、日々の仕事や生活を、ただ一つの「表の顔」だけで処しているだろうか? 決して、そうではないだろう。 ある人から見れば、とても尊敬できない「鬼」のように見え、ある人から見れば、深く尊敬できる「仏」のように見えるであろう。
誰からも尊敬される「高潔な人 例えば、仏教の古典に語られる「鬼手仏心」。この言葉は、鬼のように厳しい処し方の背後に、仏のような慈愛に満ちた心があるという人間の姿を、ある状況における「理想的な姿」として語っているが、これは、「鬼」と「仏」という、一見矛盾する二つの人格が、一人の人間の中に共存することを意味している。 結果、自分の中に様々な人格を育てることがポイントである。
参考文献:『人間を磨く』 田坂 広志 著/光文社新書