■閃くとき・・
ある新規な課題を立ち上げる際、決断をせまられるとき、今までの経験を踏まえて直感で決めることがあります。いろいろな人の話を聞きますが、最終的に行動を決める取捨選択は、自分自身で行っています。
それに気づきさえすれば、何かの決断をするというときに、目の前の現象に囚われることなく、自分自身が拠り所にしている貴重な経験知などを求めることができるのではないでしょうか。
直観に意識を向けるその根底には多様な経験を重ねることで蓄積され、かたちづくられた人生観や価値観といったものが横たわっています。 直感とは迷いも悩みも起こり得ない瞬間を捉えたものです。その中に大きなヒントが隠れていることも多く、そのヒントを手がかりとして考えを進めていくと、思いがけない展開、発見があります。
それに基づいた選択がベストでなかったとしても、少なくとも自分のスタイルには合っているはずです。だから、次にミスをする可能性も小さいし、ある種の心地よさも内包し、納得のいくものとなりえます。
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論理思考から大局観へ
これは、将棋の故大山康晴名人のエピソードです。冬のある日、将棋会館で部屋の出口の近くで若手棋士たちが「詰め将棋」をやっていたそうです。 その詰め将棋は極めて難しいものであり、天才的な資質を持って修練に励んでいる若手棋士たちが集まっても、なかなか解けないものでした。
このとき、大山名人は用事を終え、コートを着ながら、その横を通り過ぎましたが、出口のところで振り返って「諸君、お先に」と挨拶をし、「ああ、その手は何手目で、何で詰むよ」と一言つけ加えました。
驚いた若手棋士たちが、その後、詰め将棋を解いたところ、果たして言葉通りになったのです。そこで、感銘を受けた若手棋士の一人が、後日、大山名人に聞きました。 「先生は、あの何百通りの手を、あの入口まで歩む数秒間に、すべて読まれたのですか?」 「いや、手を読んだのではないよ。大局観だよ」と答えたそうです。
直観力や洞察力を身につけたいと考えるならば、このエピソードは深く考えさせてくれる言葉です。 これほどの大局観を持つ大山名人も、かつて、この若手棋士たちと同様、難しい詰め将棋を前に、手を読んで、読んで、読み抜くという極限的な修練を重ね、大局観という能力を身につけることを修得してきたはずです。
言葉を換えれば、論理思考によって考え、考え、考え抜いたとき、大局観の世界が開けたということです。 すなわち、多くの先人たちは、「論理思考」に徹する時代を経て、大局観や直観力や洞察力を獲得してきたのです。
論理に徹する道
例えば、企業において、「あいつは理屈っぽいから、勘が鈍い」などの批判の言葉を耳にします。 論理的であるがゆえに直観力や洞察力を身につけられないのではありません。論理に徹することができないがゆえに、直観力や洞察力を身につけられないのです。
要するに、中途半端なのです。 また、羽生善治棋士の含蓄のあるエピソードです。 彼が、パソコンを用いたデータ重視や分析重視の方法を持った、文字通り論理思考のスタイルの棋士であることは誰しも疑わないでしょう。
しかし、かつて七冠を獲得した直後のテレビでの対談において、対談相手の若手哲学者に「対局中、どういう心境なのですか?」と聞かれて語った次の言葉は、極めて興味深いものです。
「将棋を指していると、ときおり、ふっと魔境に入りそうになるんです」この言葉は、何を意味しているのでしょうか。 魔境とは、心理学用語で言われる「変性意識状態」のことであり、直観力や洞察力など、人間の特別な能力が閃く意識状態のことです。
すなわち、このエピソードは論理に徹する修業を積み重ねていくと、その意識が論理の世界を突き抜けて、「論理を超えた世界」へと入っていくことを示しているのです。
人為を超えて身につく能力
直観力や洞察力というものは、気がついたら自然に身についている能力なのです。 例えば、現在、経営者、芸術家、職人、スポーツ監督などに、直観力や洞察力に極めて優れた人々がいますが、これらの人々は、直観力や洞察力そのものを磨こうとしてそれを身につけたのではありません。
あくまでも、「経営における正しい判断を下す」、「自分の美感を満たす作品を創る」、「納得できる良い仕事を残す」、「スポーツの厳しい競争に勝つ」という目的のための厳しい修練に徹した結果、ある日、気がつけば直観力や洞察力が身についていたに過ぎないのです。
少し拡大して解釈すると、こうしたことは、直観力や洞察力だけでなく、創造性などについても同じことです。 創造性という能力もまた、人為によって身につける能力ではなく、自然に身についてきた能力なのです。
例えば、いまだかつて、創造性を身につけるためにはどうすればよいかとの発想を持って、真に創造的な作品を残した芸術家はいなかったことを理解すべきでしょう。 そもそも、創造性とは、他者との相違は何かを追い求めて生み出されるものではありません。
創造性とは、自己の真実とは何かを追求しながら、修行から自然に生み出されるものです。 それは、自己の魂の声に導かれ、自己の真実を求めて歩み続けた人間の足跡から、他の人々が自然に感じとるものに他ならないのです。
そして、人々がその芸術家の作品の中に見る創造性とは、その芸術家自身にとっては、決して目的ではなく、単なる結果に過ぎないのです。
無心であるときに閃くもの
例えば、勝負ごとの世界には、「直観は過たない、過つのは判断である」という格言があります。 たとえば、仕事において、極めて重要な問題が発生します。
その瞬間に、第六感がピーンとひらめくのですが、その後、様々な分析や検討を進めていくに従って、別な答えが正しいように見えてきます。 そこで、その別な答えを選ぶという判断を下すのですが、結果は、最初の直観が当たっているという皮肉な展開となることがよくあります。
では、こうした場面で、なぜ「判断」が過つのでしょうか。 羽生善治棋士のもう一つのエピソードが、大切なことを我々に教えてくれています。何年か前の竜王戦第六局における、佐藤康光棋士との対局です。
羽生棋士が、先手であるにもかかわらず、開始後数分間、先手を指さないのです。 目を閉じて、何か考え事をしている。通常ならば、前日の夜か当日の朝には、先手に何を指すかは決めているはずなのですが、指そうとしません。
そして、対局者の佐藤棋士が訝しげに見つめ、周囲に心の波が伝わり始めたとき、ようやく羽生棋士が先手を指したのです。 後日、羽生棋士は、詩人吉増剛造氏とのテレビでの対談において、このとき、「突然、迷いが生じたのですか?」と聞かれ、答えています。
「いえ、そうではありません。静寂がやってくるのを待っていました」 これは決してカメラのシャッター音が騒々しかったということを述べているのではありません。大勝負の一番において、最も大切な先手を指す瞬間に、どのような心境でそれを行うかにこだわったのです。
深い直観力が求められるとき
大切なことは何を選ぶかではありません。 最も大切なことは「いかなる心境になれるか」なのです。 では、なぜ、羽生棋士が答えたような、「静寂がやってくるのを待つ」ことが大切なのでしょうか。それは、苛立ち、焦り、不安、恐怖などのエゴに振り回され、騒々しい心境で意思決定を行ったときには、直観力が曇り、誤った判断に流されてしまうからです。
逆に、「無我夢中」、「無心」の心境になっているときは、不思議なことに、直観と洞察の閃きが起こるからです。 この意義深い道理から、経営者やマネジャーには、重要な選択を迫られるとき「無心であること」、「私心が無いこと」が問われています。
参考文献:『なぜマネジメントが壁に突き当たるのか』 田坂 広志 著/ 東洋経済