自分を大切に・・
誰しも日常の活動で壁にぶつかり、解決への模索の過程で、自分は変わりたい、成長したいとの想いになることがあります。 アメリカの心理学者ウエイン・ダイアー氏は人生のあらゆる問題はすべて自分で選択、解決が可能であり、その場合の選択とは、自己の感情や幸福が含まれると述べています。
しかし、自分の感情や幸福は選択できないものと思っている人があまりに多いのではないでしょうか。感情は他者からの原因で起こるものであり自分で選択できないものと思われているようです。
感情というものは空中に浮いているものではなく、何かを考えることから生じるものなのであります。何を考えるかを自由にできるということは、何を感じるかも自由にできるということであり、すなわち、感情をも自由にできるということです。
そして、自己実現を目指すために、焦点を絞り全力を注ぎ、自分で選択した人生を送る覚悟を決めれば、自分だけでなく、周囲も幸福に満たされる社会人に成長していくことでしょう。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
心のシェイプ・アップを
私たちは自分自身を愛せよということを、心にはとめていないようです。けれども、現在の幸福を得たいと思うのなら自分を愛することを学ばなければなりません。 自分自身を愛するのはごく自然なことです。それなのに、私たちは子供のころから自己愛はわがままやうぬぼれに近いものだと教えられてきました。
そして、思春期に達するころには社会の教訓が根を下ろしてしまいます。自己不信の花盛りというわけです。年が経つにつれてますます強化されていくようです。つまり「他の人があなたをどう思うか」が基本となってしまいます。
子供のころの考え方を、そう簡単に払拭できません。自分が自分に対して抱いているイメージを他人がどう見ているかに基づいているからもしれません。確かに、自分はどこの誰なのかということは、大人から聞く以外に知る手だてはありません。それを後生大事にいつまでも抱えているのはまちがっています。
古い足枷をはずし、治りきらない傷をきれいに拭うのは大変な作業です。しかし、いつまでも足枷をはめた状態にあるのは、後々のことを考えると、かえって大変なことになります。精神的な訓練をすれば、自分を愛する気持ちに立って、目を見張るような選択ができるようになります。
愛することが上手な人たちは、自己破壊的な行動をとったり自分をおとしめて、すみっこに隠れたりはしません。上手に愛を与え、かつ受けることができます。その出発点はあなた自身です。自分を過小評価するような行為が、今では自分の生き方となってしまっているならば、そんな行為は一切やめると誓いを立てるべきです。
自分の価値は自分自身が決める
自分像というものはたった一つしかなく、それが常に肯定的か否定的かのいずれかなのだという神話を打ち破らなければなりません。自分のイメージはたくさんあって、刻一刻と変化するものです。
「自分自身のことが好きですか」と尋ねられた場合、つい自分に対する否定的な考えを全部ひっくるめて、「いいえ」と答えてしまいがちです。嫌いな部分をばらばらにして一つずつ分類してみれば、自分が目指すべき目標がはっきりします。
また、自分自身に対して、肉体的、知的、社会的、感情的な面でいろいろと感じていること、また、音楽、運動、美術に関する理解、文章力など、おびただしい数の自画像があるはずです。そしてそのあらゆる行動を通して、その自分をみずから拒否せずに受け入れることです。
自分は存在している。自分は人間です。それだけで十分なのです。自分の価値は自分自身で決めるもので、誰にも説明する必要はありません。あなたの価値は天与のものであって、あなたの行動や感情とは無関係のものです。
自分のふるまいをいやだと思う場合があるかもしれないが、それは自分の価値とは何ら関係がありません。私たちは価値ある人間でいようと決心することです。
選択肢は二つだけー現実を変えるか、見方を変えるか
あなたは自分の身体が好きだろうか。身体の一つひとつの部分について分けて考えてみよう。髪、額、目、瞼、頬といった具合に頭のほうから順次チェックしていく。ロ、鼻、歯、首などは気に入っているだろうか。腕、指、胸、腹などはどうだろう。こうして身体中くまなく調べてみると、非常に項目の多いリストができあがります。
好ましい身体を持っているというのではなくて「自分=自分の身体」なのです。自分の身体を嫌うのは自分自身を人間として受け入れないということです。それでも、身体の中で嫌いな部分が多分あるでしょう。もし変えられる部分なら、変えることを一つの目標とすればいいのです。
よくないと思っても変えられない部分、たとえば、脚が短すぎる、目が細すぎる、逆に大きすぎる、などは見方を新しくすればよいのです。脚の長短は、髪の毛の有無と大差ない問題です。
自分にとって何が魅力的かについて、他人の指図は無用です。肉体的に自分を好きになる決心をしたら、自分の身体は自分にとって価値も魅力もあるものだと断言するのです。比較することや他人の意見を退けることです。
幸福な人ほど「知的」になるのはなぜか?
その他の場合も同じような選択をすることが可能です。自分自身の基準に当てはめて考えれば、自分を知的だと思うこともできます。たとえば代数や書き取りなどの分野が苦手なのは、今までに行なってきた選択の当然の結果として、そうなったにすぎません。
練習に十分な時間をかけようと決めさえしたらまちがいなくうまくなるでしょう。 自分を過小評価しているとしたら、それはそういう考えを受け入れてしまったからです。学校の成績のように常に変化するものを基準にして自分と他人とを比較するからです。
びっくりするかもしれなせんが、人は自分の望むとおりに頭をよくすることができます。才能は資質よりも、どれだけ時間をかけるかに負うところが大きいのです。 一年生レベルで優秀な生徒がとる得点を、高学年レベルでは大多数の生徒がとっています。
また、なかには他の生徒よりもかなり早く習得する生徒もいるけれども、最終的にはほとんどの生徒が各学習課題を習得します。ある技能を完全に習得するのに、他人はより時間がかかる生徒には、ただそれだけのことで「不可」というレッテルが貼られてしまいます。
この点に関して、学校学習モデルを提唱したジョン・キャロルは「学校における学習形態の一モデル」という論文の中で次のように述べています。
適性とは、学習すべき課題を習得するのに要した時間の総和です。この公式的記述が暗に示しているのは、十分な時間が与えられれば、どんな生徒でも課題を習得できるという仮説です。十分に時間をかけ、習得できるのです。かつ努力をすれば、決心次第でどんな学問上の技術もほとんど習得できるようになります。
もっと成長するために自分像をどう修正するか
いったいどうして、わけのわからない問題を解いたり興味のないことを学んだりすることにエネルギーを費やさなければならないのか? また、幸福になること、効果的に生きること、愛することなどのほうがずっと大きな目標だと考える人もいるでしょう。
ここで言いたいのは、知性は遺伝、あるいは他から与えられたものではないという点です。自分がどこまで賢くなれるかは、自分の決心次第です。自分でここまで賢くなろうと決めることです。気に入らないというのは、ただ自分をさげすむことになります。自分をさげすめば、自分自身の人生を傷つける結果になりかねないのです。
自分像を自分で選び取ることができるという論理は、自分の頭の中に焼きつけてある自分の姿ひとつひとつ、全部に該当します。社会生活にどの程度熟達するかは自分の心ひとつです。自分の社会的な行動の取り方がいやだと思えば、その行動を変え、しかもそのことと自分の価値とを混同しないようにすればよいのです。
同じように、美術、技術、運動、音楽、その他いろいろな分野における能力はたいてい、本人の選択の結果として生じたものであり、自分自身の価値と混同してはならないのです。自分にとってふさわしいと信じることに基づいて自分自身を受け入れることが、今、私たちの決心次第でできることなのです。
自分にはこれから改めるべき点があるからといって、自分はつまらない人問だと思う必要はまったくないのです。理想に一歩でも近づくように手を入れて修正していくのはきっと楽しい作業に違いありません。
参考文献:『「自分のために人生』 ウエイン・W・ダイアー 著/知的生きかた文庫