他者への貢献

精神科医、心理学者であるアドラーは共同体感覚を持つことの大切を繰り返し述べています。共同体感覚とは他者に対する貢献により形成され、悩みから解放され、他者を仲間だと見なし、そこに自分の居場所があると感じられることです。社会の中で居場所がないことは大変悲しいことです。しかし、泣き言をいってもだれも助けてくれません。

まず、他者へ貢献することから始めなくてはなりません。自分は他者に貢献できると信じ、自信を持って他者に貢献し、他者から感謝され、支援され、社会の中に居場所を作っていくのです。 自分だけでなく、仲間の利益を大切にし、受け取るよりも多く、相手に与え続けることが重要です。

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幸せは人と助け合いながら生きる

丹後半島の人里はなれた山あいの集落に暮らしている60代の夫妻が想像を超えた困難から見つけた幸せの話です。梅木好彦さん、久代さんです。NHKスペシャル「見えず 聞こえずとも〜夫婦ふたりの里山暮らし〜」という番組でお二人が紹介された。タイトル通り、妻の久代さんは視力と聴力を失っている。

好彦さんは、若いころ宮沢賢治の書物にふれ理想の農業を求めて全国を放浪した。京都北部の味土野に根を下ろし、一人で黙々と自然に対峙し、自給自足の生活を実践し満足していた。

一人の生活から人との関わりへ

一人の生活から人との関わりへ しかし、年齢を重ねていくうち、誰かの役に立ちたいと思うようになった。全国を旅して、おばあさん、偉いお坊さん、いろんな人と出会い、人と助け合いながら生きることの大切さを痛感した。

そこで、百姓をやりながら、自分のできる範囲で、人の役に立ちたいと思い、共同作業所(障害者の社会復帰や生活訓練、自立訓練を目指して内職や就労作業を行う場)のボランティアグループを手伝っていた。その作業所で初めて、目と耳の両方が不自由な人がいるというのを知る。視覚障害者の手引きをする人や、点訳のできる人が少なくて困っていると耳にした。

さっそく講習を受け、ガイドヘルパーを始め、次は点字とばかりに、点訳指導員の友達から点字を習い、その後、手話も勉強した。そこで阪神・淡路大震災のボランティアに参加するようになり、そこで久代さんと知り合った。

久代さんの人生は壮絶だ。2歳の時、高熱のため耳がまったく聞こえなくなり、ろう学校に入り高等部を卒業した。聴者の男性と結婚し、男の子2人を育てたが、視力の低下が進み失明、35歳で離婚した。暗闇に押し込められた日々に絶望した久代さんは2度も自殺未遂を経験していた。そして、好彦さんが50代の時に結婚して、久代さんを支えた。

好彦さんと久代さんの結婚はいろいろ想像したら、非常に難しい決断だったと思われる。 例えば、耳が聞こえない人なら、手話という手法や顔の表情、雰囲気で相手の意図したこが伝わる。 また、見えない人なら、音声で意図するこが伝わる。

盲ろう者の久代さんに伝えたり、理解してもらうことがどれほど大変か想像しただけで、途方にくれただろう。 3重苦のヘレン・ケラー女史とアン・サリヴァンが想像を絶するバトルを繰り返した「奇跡の人」を思い出す。

苦難と試練の連続

雪のために2週間も家に帰れなかったり、すずめ蜂に刺されて夜中に病院に駆け込んだり、台風で瓦が吹き飛ばされ、窓は割れる、電気、電話は止まる、道は崩れる、状況のつかみにくい彼女にとっては、本当に怖かったと。このような環境では近くにおしゃべりのできる友達が少ないことが、一番こたえた。久代さんの愚痴と不満は、もちろん亭主に向けられた。

しかし、他の盲ろう者もそうであるように、ごまかしのきかない立場は本当につらい。頭の回転の早い妻の愚痴攻めに、長年の修行もどこへやら、かっとなって近くのものを床に叩きつけたことも、今となっては懐かしい思い出と。

こんなことを繰り返しながら、お互いにそれを乗り越え、知らなかった世界を少しずつ学んできた。久代さんとぶつかり合いながらも一つ一つ乗り越えて、明るい世界を構築した。

すべては人への貢献へ

盲ろう者を援助する際、重要な事は通訳者または介助者だけではいけない。言葉を触手話で通訳しながら、移動を手助けする通訳介助者でなければならない。 盲ろう者に手を貸しながら、「数メートル前方に3歳ほどの男の子が母親と一緒に歩いている、ゆっくり今、すれ違った」と、状況説明をする。レストランに行けば、メニューや価格をひととおり通訳する。

今、店内に何人客がいて、広さはどれくらいかなど、状況をできるだけ詳しく、映像が頭に浮かぶように伝える。 盲ろう者は、今、そばに誰がいるか、誰が退席したか、見えないのでとても不安になる。僅かな時間でも離れるときは、「離れます」と的確に伝えることが重要だ。

 たとえば、「運営」「経済」「やりくり」の三つの言葉は、同じひとつの手話で表される。通訳介助者は、その前後の文章によって、意味がわかるように伝えねばならない。 「楽しい」「うれしい」「喜ぶ」の手話もひとつだ。盲ろう者にとっては、大切な感情表現なので、どの言葉が適切か、気持ちを推測しながら瞬時に訳さねばならない。

ゆえに、通訳介助者の資格は相手の手話のボキャブラリーや、会話の速度、気持ちを推し量りながら、援助する高度な技術と能力が要求される。 盲ろう者の介助派遣制度の現状について、好彦さんはこう語る。

「盲ろう者に対する介助者派遣制度は、全国盲ろう者協会が試験的に行っている訪問相談員制度以外になかった。盲ろう者は、目的地に着くまではガイドヘルパーを頼めるが、ガイドさんとうまくコミュニケーションをとれない場合は大変困る。でも、手話通訳者は基本的に盲ろう者のガイドはできないので、目的地に着いたあと通訳だけになってしまう。

支援費制度が施行してからは、一か月の時間制限ができてしまい、通訳のできないガイドさんは、目的地で何もせずに時間だけとられて、困ってしまう。盲ろう者にとって、おしゃべりも手引きも両方できる、好彦さんのような通訳介助者が一番ありがたい。好彦さんは盲人ガイドヘルパーとして、時給で京都視覚障害者協会から、謝金をもらっていた。

好彦さんはその謝金を貯めて、視覚樟害者や盲ろう者を、遠方でも自由に手引きできるように、車の免許を取ろうと決心した。自動車学校の授業料は高くて、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで入学した。ここ30年で、一番大きな金額の出費となった。50歳で免許を取得、14万円で中古の軽自動車を買った。

好彦さんは最寄りの駅から車で45分という山間部に住みながら、車を持っていなかった。資格取得も、車も、すべては、困っている人への思いだ。盲ろう者の通訳介助がいかに難しいか、通訳介助自体、介助者の根気と忍耐を必要とした。

そして、有機米の売り上げが年間30万円の生活から、自動車の費用を捻出した。久代さんにも容易に想像がついた。言うは易しいが、実際に行動できる人がどれだけいるだろうか。しかも、彼は何の市民団体にも、組織にも属していない。過疎の村で、たったひとりで、社会参加している。

指から伝え、ひとつひとつ、久代さんの身体に沁みわたるように伝えた。 「なあ、久ちゃん。何でもあたりまえと思わんほうがええよ。世の中には、いろんな事情で、いろんな不自由を強いられている人がいる。歩けること、食べられること、空気を吸えること。それができるだけでも、ありがたいことなんやで」と諭す。

たとえば、主婦の仕事だってな、毎日やらなあかんあたりまえのことだって、思いがちやろ。でも、全部自分の頭で考え、手で創り出す、百姓と変わらんくらい、素晴らしい仕事なんや。あたりまえと思っとったら、何でもつまらなく見えてくるでと。

自分の目指す農業のこと、今まで何の疑いもなく食べてきた野菜や米が、どれだけ安心できないものであるかということ、将来安全な食べ物がなくなるであろうこと。久代さんは私の知らないことを、いったいこの人はどれだけ知っているんだろうと、思った。

好彦さんの回想

味土野は2メーター以上の雪が積り、やがて真っ白な雪におおわれた冬が過ぎ去るとまた暖かい春がやってくる。人生に一節一節があってこそ、人間も古びてゆくのではなく、新しく生まれ変わって、死ぬまで成長していく。そうして、己の無力を知り、無限の命に生かされている有難さに、日々気づいて、感謝の毎日を送れたらよいなと思う。それは社会に対して従順であること。

まともでない社会に対しては、憤りを持ち、正しい社会を作って行こうという情熱も必要だ。その情熱が己の心から出たものではない無限の命の要求であるように今ここに生きている、生かされていることは、父母をはじめ、無限の愛の中に育まれてきた証だ。

すべての出会いの中で、私たちを育んでくれた皆さん、ありがとう。これからもご恩を忘れずに、正しい道から外れないよう、おかしな二人三脚を続けていきたいと思っていると重みと暖かみのある言葉が印象的だ。

参考文献:『見えなくても、きこえなくても』 (著者 大平一枝/主婦と生活社)

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