人を動かす

ジャック・ウェルチは1981年にゼネラル・エレクトリック(GE)の最高経営責任者に就任し、伝統企業に活力を与え続けました。  最もよく知られた戦略はナンバーワン、ナンバーツー戦略です。「市場でナンバーワンかナンバーツーの事業だけで勝負するGEにしよう」ということで、100を超える事業を売却しました。

 その事業は21世紀のGEを支えられるものでないことは明らかでした。 ジェットエンジンや新世代のプラスチック、医療用の画像診断機器など、他社が簡単には真似できない事業を選び、圧倒的に強くするために資金や人を投じました。 また、「穏やかでバランス感覚のある、思慮深いリーダーになろうなどと思っていてはダメだ」と述べています。

一方、ピーター・ドラッカーの言葉にも「成果が何もなければ、温かな会話や感情も無意味である」と。成果を上げて競争に勝ち抜くためには、リーダーは信念に裏打ちされた強さが欠かせないのです。

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日本電産を襲ったモーター技術革新の危機

日本電産を襲ったモーター技術革新の危機 現在、日本電産はHDD用の精密モーターでシェア80%、光ディスクドライブ用精密モーターで同60%など、盤界トップシェアの製品を12も抱えている。シェアの高さはもちろんだが、トップだけで12の分野を持ち、製品の幅の広さと全体の規模でも世界最大級のモーターメーカーである。

2000年頃、牽引役となった精密モーターに大きな危機があった。当時、連結売上高の約30%を占めていた精密モーターに大きな技術革新が起こり、業界関係者から日本電産が取り残される可能性を指摘された。

従来、精密モーターの中心で回転するシャフトとそれを包む軸受けの間にはボールベアリングを入れていたが、新たに潤滑油を入れるタイプが取って代わると言われ始めていた。

「流体動圧軸受け(FDB)」と呼ばれる新型が注目されるようになった。ハードディスクの記憶容量(記録密度)が1990年代半ばから急速に高くなり、ボール型より高速回転が可能で音も静か、寿命も長くなるというものだった。

この変化は、日本電産には重大な問題だった。FDBの基礎研究自体は1992年頃から進めていたものの、カギになるFDBの軸受けなとの精密部品の加工技術がなく、部品のほとんどは外部から調達するなど日本電産自身は組み立てに特化していた。

FDBへの移行はまた始まっていなかったが、FDBの市場が立ち上がればー気に崩されかねない。そこで、永守氏が取った戦略は1990年代後半の積極的なM&Aだ。97年に部品・計測機器メーカーの、トーソク現・日本電産トーソク)とブレス製造の京利工業(日本電産キューリ)、98年に光学披器メーカーのコパル(現・日本電産コハル)などを次々と買収した。

それら企業の技術を活用しながら、シャフトや軸受,編辺部品を徐々に開発していった。 そして、日本電産トーソクとともに専用計測機器を開発し、サブミクロン(1万分のーミリ)の精度を上げ、軸受などを加工する一方、精密部品のブレス加工では日本電産コパルの金型技術と日本電産キューリのブレス技術を活用した。

2003年10月、FDBの基礎技技術開発に日本電産より早くから取り組んでいた三協精機製作(現日本電産サンキョー)のM&Aを行い、FDB対策に効果を発揮した。

技術の優位性を確保する戦略にたけている

日本電産が急速にシェアを拡大したのは1980年代後半、3.5インチのハードティスクか出てきた頃たった。ハードディスクは顧客メーカーごと、機種ごとに仕様が違うので、モーター内のベアリングや磁石の特性を変えなければならなかった。

しかも、当時はハードディスクメーカーも淘汰前で、何十社とあった。金型を作るのは多数の顧客の要望に応えて設計し、大変な時間がかかった。そんな努力によりシェアを獲得したことで、モーター生産に必要で多額の資金がかかるクリーンルームへの投資がしやすくなった。

逆に言うと、シェア争いに遅れた他のモーターメーカーは技術で負けなくても、シェアの障壁でハードディスク市場に参入できなくなった。こういった戦略に加えて、その戦略を実行する社員の強烈な働きぶりもあった。

90年代半ば以降、ハードディスクの大容量化が進んだ時期にも「近い将来」とささやかれたが、実際にいつになるのかは,読めなかった。結果的には2001年から本格的にシフトしていったが、時期が読めないだけに、可能牲が見えた段階で一気に準備を進めるほかなかった。その時に、数々の仕組みで鍛えられた社員の底力が生きた。

1995年頃から徐々にFDBモーターに使う加工技術の習得を進めていたが、M&Aで獲得した企業群がグループに加わり始めた97年頃から本格化した。複数の従業員で行っていたモーター組み立て作業と違い、FDBの部品生産は、1人で加工機を扱わなければならない。

しかも、高い精度を出すには、NC(数値制御)装置のきめ細かな操作が必要とした。ところが、その当塒の現地従業員(タイ)は、工作機械の操作は経験がなく、数学的な知識のない者も多かった。一人ひとりに手取り足取り操作を教える以外に手段がなかった。

永守氏の強烈な個性は3大精神

徹底したコスト削減で見せる「集中力」、赤字は罪悪と言い切り、利益を出すためにはどんな困難なことでもやり抜く「強い意志」、絶対に競争に勝ち抜く「闘争心」、これらはすべて永守の思いあり、日本電産の精神風土である。

「情熱・熱意・執念」「知的ハードワーキング」「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」。日本電産が掲げる3大精神の出発点が永守氏の強烈な個性にあるのは間違いない。

「できる、できる」と唱え続けて納期半減を実践した。経営者としての変遷を見つめてみれば、創業時から20年近くは自ら思いをむき出しにして会社を引っ張っていった時代だった。全員で営業に走り回り、自動ドアからマッサージ器、映写機、ダビング装置のモーターなど、可能性のある顧客にはどんどん声を掛けた。

「できる、できる」と唱え続けて納期半減

「お客さんが使用しているモーターを借りて、それを基にサンプルを作り、「もっと安く、早くできる」と持ち掛ける。受注できればお客さんに資金を出してもらって金型を作り、納品する。次はその製品を別のお客さんに持っていき、うちはこんなものができます」と営業をかける。

「よし」となったら、また金型代を出してもらって作る。それの繰り返しだった。ほかの会社のように製品カタログなんか作ていたら、在庫として持っておかなければならなくなる。それではコストがかかるばかり。当時の日本電産には無理だった。だからこそ、他社に納品した製品がカタログ代わりになった。

振り返れば、日本電産は無理なチャレンジの連続だった。「できる、できる、できる…。創業後しばらくの間、日本電産の工場は夜になると、こんな念仏のような合唱が響き渡っていた。その頃の日本電産が安さとともに売りにしていたのは「他社の半分の納期しという圧倒的なスピードだ。そもそも無理なので技術者は音を上げようとする。

永守氏は「できる、できる・・と繰り返してみい、そしたらできるようになる」と叱咤したという。怒られて幹部は渋々声を出したが、「唱えているうちに何となくできる気になった」と苦笑する。

米国に飛び込み営業で受注獲得

創業して問もない頃は必死で営業しても仕事がなかなか取れなかった。当時、山科精機時代にわずかに付き合いのあった3Mが当時、生産していたカセットテープのダビング装置を小型化しようとしていることを聞き付けた。

苦境を打開するため思い切って米国に行った。「日本では新参者を簡単には受け入れてくれないが、米国には可能性があると思った」と永守氏は笑う。 ダビング装置を小型化するならモーターの小型化も必須。永守氏は、3Mの購買担当部長に「従来品より3割小さくできる」とまくし立てた。

その場は終わったが、約半年後、小型化したうえに相手の要求する回転スピード、パワー、静音性、耐久姓、回転ムラなどのスペックを満たす試作品を持ち込んで、ついに大量注文にこぎ着けた。 ハードディスクは1980年頃から実用化のための開発が本格化した。だが、当時はパソコンの記憶媒体といえばフロッピーディスク全盛。

永守氏は早々にフロッピーディスク駆動装置(FDD)用モーターをあきらめ、ハードディスク(HDD)用に絞った。FDD用モーター市場にはライバルが数多く有り、参入しても勝てる要素がなかった。

一方で、HDD用モーターは競合が少なく、新興の日本電産にもチャンスがあった。しかも、市場は技術的に発展途上だったため、不十分でもサンプルをいち早く持ち込めば、HDDメーカーがいろいろと指導してくれた。その上、当時、他社が注目していなかった新型のブラシレスモーターにも早くから着目していた目利きの確かさがあった。

社員は残業もいとわず、体を張って開発していくうちにHDDメーカーも日本電産のサンプルを前提に動くようになり、結果として、圧倒的なシェアを獲得するに至った。 永守氏は「歩」の人材を確実に育て、「と金」にするのは私の仕事と宣言しているところに人の適正を見抜き、大切にしていることが分かる。

創業から、大きな問題を克服し、圧倒的なスピードで成果をだし、「すぐやる」、「必ずやる」、「出来るまでやる」という姿勢を貫いてきた。その思想が組織に浸透し、社員はその無理難題に答えてきた。

参考文献:『日本電産 永守重信、世界一への方程式』 (田村賢司 著/日経BP社 )

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