■ 知識を価値へ
現在、複雑な環境の中で起きている様々な問題を解決するとき、一部の人だけで最適解を見つけ出そうと話し合い、解決策を選択しても、成果は出しづらくなっています。 その理由として、社会の変化が速く、多様な複雑性があります。
何が正解か試行錯誤を繰り返し、ようやく見つかるものです。そこで、課題に挑戦するためには、プロジェクトのゴールを明確にし、成功の暁には誰がどんな役割と責任を果たしたかがイメージできるようにすることです。
そうすると、話し合いに自然な流れが生まれ、お互いの考えや想いが響きあい、より深く理解しあうことができます。 次第に、各自の認識が個人のレベルを超えて、新しい知識の創造や発見、さらに目的意識やビジョンが共有された価値観が生まれます。
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霞ヶ浦の自然を蘇生させる
霞ヶ浦は、茨城県の南東に位置する日本で二番目に大きい湖である。1968年から1996年にかけて行われた大規模な霞ヶ浦開発事業によって湖岸がコンクリートの直立護岸に覆われた結果、湖岸に生息していた植物に大打撃を与え、その影響で魚類、鳥類などの生態系の破壊が進んだと言われている。
夏には植物性プランクトンが大発生しアオコとなって湖面を覆うようになった。湖はカビ臭い異臭を放ち、水中の植物や魚などは死に追いやられた。 1994年ごろには、霞ヶ浦はすでに「汚い湖」とか「死んだ湖」などと言われるほど環境汚染が進み、生態系の破壊も進んでいた。
初夏のある日、NPO法人アサザ基金代表の飯島博氏は1993年から数人の小学生たちとともに全長約250キロメートルにもなる霞ヶ浦の岸を季節ごとに徒歩で歩き回り、「霞ヶ浦の宝物」探しをしていた。
霞ヶ浦の小学校での体験型授業を終えて、牛久市の自宅へ戻る道中で、子どもたちは「ここにはウナギがいるんだよ」と目を輝かせて自慢気に教えてくれた。 飯島氏は子どもたちにちょっとした疑問や質問を投げかけて、観察させて考えさせる。そうすると、子どもたちの地元への理解も関心もさらに深まった。
そうした活動の中で、子どもたちが持つ無限の力を引き出し、それをさまざまに生かしてきた。 飯島氏は子どもたち人ひとりの中に、地域に残る霞ヶ浦の伝説に語られる竜の力が潜んでいると信じ、これを呼び覚ますことが日本の再生につながると考えたのである。
そんなある日、霞ヶ浦の周りを歩き回っていた飯島氏と子どもたちは、岸辺に生えているアサザの群生を見つけた。それは、岸から沖合数十メートルにまで広がる大群生であり、黄色の小さな花が緑色の葉っぱが広がる中に無数に咲いていた。アサザは波を穏やかなものに変え、そこに、ヨシやマコモなどが茂り、水鳥が波問を泳いでいることに注目した。
コンクリート護岸に固められる以前、霞ヶ浦はそこここで見られた風景であった。アサザが霞ヶ浦の植生を作る鍵を握っているのではないかという仮説を立てた。調べてみると、アサザが霞ヶ浦の自然を回復する鍵であることが判明した。
アサザには波を穏やかにする働きだけでなく、水中のリンや窒素などを吸収し、鳥や虫、魚へと食物連鎖をつなぐ働きをすることが分かった。アサザによる霞ヶ浦再生への道筋は車では通り過ぎるだけで終わり、自らの足で歩いたからこそ気づくことができたのである。
アサザが霞ヶ浦再生のシンボル
アサザがまさに霞ヶ浦再生のシンボルとしてふさわしいと考えた。アサザは種をコンクリート護岸から湖に直接まいても育たない。そこで、飯島氏は里親制度というコンセプトを思いついた。アサザがある程度大きくなって水中でも育つようになるまで、誰かに育ててもらうのである。
目をつけたのは地域の小学校である。子どもたちに霞ヶ浦のことを知ってもらい、環境問題を考えてもらうきっかけになれば、学習の上でも一石二鳥以上の効果が期待できる。
手始めに、子どもたちに「トンボやチョウチョに戻ってきてほしいかい?ならアサザを育てる手伝いをしてくれ」と持ちかけた。子どもたちは目を輝かせ、「やる、やる」と言った。多くの小学校が参加したことで、ふたたび新たなヒントを得る。
地域を学区という単位で区切るのではなく、学区をネットワークしていけば、子どもたちのネットワークと自然のネットワークを重ね合わせる。小学校にビオトープ(生物の住息環境)を作り、学区に最も近い場所に生えていたアサザなどの植物の種を渡して育ててもらうことにした。
メダカの学区制という制度を作り、その学区にもともといたメダカやタニシに限ってその学校のビオトープで育てても良いことにした。 しかし、開始から1年は、せっかく植えたアサザが波に持っていかれる失敗が続いた。アサザが根付くためには、水中に群生した藻が水中の波を穏やかにするなどの条件が必要だが、コンクリート護岸に打ち返す波によって流されたり、富栄養化によって光合成できなかったりしたためである。
アサザを定着させるためにさまざまな方法を試したがどれもうまくいかなかった。 そこで、岸辺に木材を打ち込み、その木材の間に粗朶(雑木の枝を束ねてまとめたもの)を詰め込み、土砂を囲い波で消す方法を思いついた。
粗朶は漁礁の役割を果たし、小魚の隠れ場所になるとともに、アサザやヨシが根付き繁殖し朽ちて土に還るため環境汚染の心配がない。霞ヶ浦を自然な姿に戻すという目的には理想的な工法だった。
知恵を形に
伝統的な河川工法の案を一枚の絵に描き、漁協に熱心に説明した。組合長たちから「粗朶は昔、漁でよく使った。粗朶には魚がよく集る」など意見が出て賛同を得た。
さらに、資材は利根川の流域の森林から出る問伐材を使えば、山と川とがネットワークされると考えた。こうして行政と森林組合、漁協を引き合わせ、1996年には小規模ながら事業化にまでこぎつけた。
経済的価値の創出
これによって、漁協と農協が協力し合い、新たに魚粉の加工事業が生まれ、商品と雇用と収入源が連鎖するようになった。 霞ヶ浦に豊かな自然を回復させ、人々が集い、交流する水辺の文化をつくりたい。アサザプロジェクトは帰ってくることを自然回復のものさしにし、8つの項目の100年計画を立てた。はじめに、
(1)アサザを植えつける。(2)アシ原が広がる。
(3)岸辺にヤナギ林ができはじめる。(4)植生帯が大きく広がる。
(5)野外復帰したコウノトリがやってくる。(6)ツルが帰ってくる。
(7)湖にトキが帰ってくる。(8)自然あふれる水辺に、人々が、こどもたちが帰ってくる。
100年計画の第一歩には、なによりアサザの復活が肝要である。飯島氏は改めて思うと同時に、国土交通省に一刻も早く水位上昇管理を中止させるため、手を尽くそうと決心するのであった。
アサザプロジェクトの社会変革
飯島氏の目には霞ヶ浦に関わる生態系の現在と過去とが連動して次第に状況が見えてきたことから、解決すべき本質的な課題に行き着いたのである。水質を改善し生態系を再生するには、ひとつの視点から活動を行うだけではだめだということが明らかになった。
点ではなく線へ、線から面に広がりを持ち、その関係が自律的に動く仕組みへと発展させていくことが求められた。 そして、人々を動的な関係でつなぎ流動的な面の広がりを持つネットワークを創る。
霞ヶ浦の再生の本質は、人々の活動の連動と秩序性にある。その内容には工夫が凝らされた。それぞれの地域が密接に結びついている伝説、環境を材料に、ストーリーを通じて、地元の良さを伸ばす方法を子どもたち自身に考えさせる内容であった。
飯島氏は、このような活動を通じて子どもたちが共感し、少しでも自らの未来と社会に関心を持ち価値観を共有、共感してくれれば、少しずつでも日本を変えて行けると信じている。
ひとりの価値観や信念が、地域的な広がりを持つ活動としてネットワーク化され、それが社会的な価値をもたらし、これまでの仕組みを変革していったのである。
参考文献:『実践ソーシャル・イノベーション』(野中郁次郎 他2名 著/千倉書房 )