場は知識創造プロセスを産む

人が目標達成に向けて行動し続けるには、たったひとりで目標に挑むという思考から抜け出し、自分には十分なリソースや協力体制があると実感することが必要です。 どこに行けば知識を得られるか、誰がサポートしてくれるか、どこに行けばツールが揃うか知っていることです。そうすれば、行動はより起こしやすくなります。

自動車メーカーのホンダは、新車開発を行うとき、プロジェクトチームのメンバーが会社組織から離れ温泉地などで合宿し、ワイワイガヤガヤと議論を行う「ワイガヤ」で有名です。メンバーは一緒に風呂に入り、共に食べたり飲んだりしながら、職位の上下関係なく語り合います。

人間的な側面を重視し、身体性を共有する時間を過ごすことで、共鳴・共感しながら目的を共有し、知識創造することができます。経営環境が大きく転換するときには、人々の知を集める場をつくることが特に重要なのです。

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熊本空港からクルマで10分ほどの小高い丘を上ると、「ヒルトップ」と命名された再春館製薬所の一大拠点が眼前に現れます。玄関と資料館を合わせた「歓迎館」を挟んで、「薬彩工園」と呼ばれる工場と「つむぎ商館」という名の本社が並び立ちます。この光景とともに驚かされるのは、見下ろす1階のオフィスに、本社のあらゆる部門部署の社員が全員同居していることです。

オフィス空間の見える化、聞こえる化へ

ワンフロアを北側と南側に分ける「川」と呼ばれる中央帯をはさんで、南半分を占めるのが「インバウンド」。顧客から電話で注文を受けるコミュニケーターのテレマーケティング部隊です。中央帯の川は企画・管理部門のエリア。川の北側は電話をかけてセールスを行う「アウトバウンド」の少数部隊です。川のほぼ中央の長テーブルが社長と役員の居場所で専用の個室はありません。

会議室は社員数約1000人で1室だけです。部門部署ごとのミーティングはたいてい川のなかに置かれた、組み合わせ自在の三角や菱形のテーブルで行われます。少人数なら立ったままの立ちミーティングがフロアのいたるところで日常的に行われます。

現会長の西川通子は徹底したトップダウンのもと、右肩上がりの成長を実現してきました。ワンフロア経営も、西川が現場で陣頭指揮し、隅々まで目を配るという監視的な意味合いが強く、社員はその緊張感のなかで力を発揮しました。

しかし、2004年に社長に就任した西川正明氏は自分には同じ能力はないと考え、社員と力を合わせて、会社のあり方を提案型へ変えていきました。全員が力を出し合える環境を生み出すために、つくり上げたのが、このつむぎ商館です。カリスマ型の現会長に対し、社長の西川氏はコミュニケーション型と評されています。

再春館製薬は、テレビCMを流してフリーダイヤルで無料サンプルの注文を受ける本格的なダイレクトテレマーケティングシステムを、日本でいち早く確立しました。その経営手腕により、年間5000万円だった売上高はわずか7年間で100億円にまで急伸しました。

ところが、月間売上高が初めて12億円を突破した93年6月、ある現実を目の当たりにし、彼女は衝撃を受けます。そこかしこに散在する返品を集めさせたところ、大きな会議室がまたたく間に埋まり、返品の山が金額にして7000万円にも上ったのです。

問題はアウトバウンド中心の売り方にありました。無料サンプルを送付した顧客に電話をかけて、かなり強引な勧誘をしました。当時コミュニケーターについては、売り上げと給与を連動させる賃金制度をとっていたため、これが拍車をかけ、買うまで電話を続けるような押し売りまがいの売り方も行われていました。

売上至上主義から顧客満足主義へ

会社はいつのまにか売上至上主義に陥いていました。地方の弱小企業が、原料メーカーや広告代理店、輸送会社などと取り引きし、人材を確保していくには信用を高める必要があり、それには何としても100億円企業に到達しなければ・・・。そんな思いが強引な売り方を半ば黙認してしまい、その結果が大量の返品となったのです。

ハットと目が覚めた彼女は顧客からの苦情の手紙を一日中読み続けました。唯一の救いは、売り方は非難されても、商品については誰も不満をいっていなかったのです。

「商売のあり方を変えれば、顧客は必ず戻ってきてくれる」会長は役員たちの反対を押し切り、「明日から3カ月間、いっさいのアウトバウンドを停止する」と宣言します。アウトバウンド中心からインバウンド中心へ、売上至上主義から顧客満足主義への転換でした。

お客様の声をすべての中心に

以来、再春館製薬は「いかにして顧客の立場になりきるか」を経営の軸に据え、それを個々のコミュニケーターだけでなく、組織全体で実践できるような仕組みをつくり上げていったのです。

例えば、テレマーケティング部隊ではこんな対応が行われます。インバウンドでかかってくる電話は、無料サンプルの申し込みや既存の顧客からの注文など1日約7000件にも上ります。それでも、どの電話にもツーコール以内に必ず出ることを徹底しました。

電話では待たせる側と待つ側とで時間の感じ方がまったく異なるからです。長年の優良顧客でも担当制をとらず、電話に出たコミュニケーターがそのまま対応するのも、待たせないことを優先するためです。

そのかわり、電話を受けたコミュニケーターの前のディスプレイには、その顧客に関する詳細なデータが表示されます。パネルをタッチするだけで、顧客とのこれまでの関係の履歴がさまざまな切り口で現れます。

しかも、文字や数字よりもマークなどが多用され、直感的に把握できるようになっています。居住地域の気象まで表示されるのは、相手の肌がいまどのような環境下にあるかを知るためです。

手書きカルテ

なかでも注目すべきは、過去に対応したコミュニケーターが手書きで残した「しおり」と呼ばれる顧客カルテです。このカルテはスキャニングされて蓄積されており、手書きのまま画像で呼び出せます。

なぜ手書きなのか。ドモホルンリンクルはシワやシミなどの肌の症状に対して用いる基礎化粧品であるため、電話では悩みの相談が多く寄せられます。それをキーボードで入力すれば効率的ですが、定型的な文章になりがちです。手書きすれば、悩みの微妙なニュアンスまでメリハリをつけて書き留めることができます。だから、手間がかかってもアナログにこだわるのです。

身辺情報として「お孫さん誕生」と記されていれば、「お孫さん、大きくなられましたか」といった会話から入り、相手の気持ちをほぐすこともあります。この間、小さな鏡で、自分が笑顔で接客しているかのチェックも忘れません。

イノベーションの成果

こうした「なりきる」対応により、インバウンドの売り上げは増加の一途をたどりました。改革8年目を迎えた2001年には、以前は7対3だったアウトとインの比率が3対7に逆転し、全体の売上高もほぼ倍増させることができたのです。

直接のやりとりはもちろん、ミーティングを近くで見ていているだけでも、あのメンバーだったらあのテーマだろうと察しがつきます。後で「どんな具合だった?」と聞けば、報告書なんか見なくてもわかる。

このオフィスでは意思伝達のスピードが非常に速まるです。部門ごとの「巣づくり」を排除し、全員が同じ方向を向くこのワンフロアのオフィスには、さらに独自の仕かけがあります。社員の席はそれぞれのエリア内で固定せず、フリーアドレス制にしているのです。

デジタルとアナログが両立した空間は、バランス感覚を培います。ワークプレイスは、オフィスにとどまることなく、物理的場所を超えてITを使った関係性のプラットフォームや、そこで共有される、組織文化や経営システムも含めた知識創造の「場」にもなっています。

イノベーションとは、社会や顧客の暗黙の知識を共有し、そこから価値を発見し、サービスやモノとして具体化していく、知識創造のプロセスなのです。

参考文献: 「イノベーションの知恵」(野中郁次郎・勝見明 著/日経BP社)

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