■学ぶことは、まねること
人間は変化する環境のなかで、生き残っていくために学習をしています。必要な場面において適切な行動を取る能力を身につけてきた。 しかし、学習する過程で同じ現象に遭遇しても、その現象の解釈の仕方、意味の見出し方は千差万別です。
ヤマト運輸の小倉昌男氏は3つの現象と出会い、大きな構想を実現しました。1つは吉野家のメニューの品数を絞り込みながらも利益を上げていることに。 2つは当時の「ジャルパック」。航空券、ホテルの予約、市内観光、添乗サービスなどがパックになり、初めての海外旅行でも気軽に出かけることができる簡便さ。
最後は、UPSの集配車がニューヨークの十字路の回りに、集配車4台が停まっていたことを発見し、これらのことが引き金になり、まったく新しい宅配ビジネスモデルを構築した。日常の環境や他者との平凡なやりとりの中に潜在する小さな状況から、大きな変化の可能性に気づくことが重要であると示している。
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学ぶことは、まねること ヤマト運輸は1919年に設立され、近距離輸送で成功を収めたが、基幹部門のトラック運送の業績悪化にあえいでいた。戦前のその成功体験が災いして長距離輸送に出遅れてしまう。創業者の考えもあり「トラックの守備範囲は100キロメートル以内でそれ以上の距離の輸送は鉄道の分野」と固く信じられていた。
東京-大阪の長距離輸送に参入できたのは1959年であり、既に他社が主だった荷主をおさえた後のことであった。なんとか、大口荷主の顧客を獲得したが、利益率は低い。1960年には3.1%あった経常利益率が、1965年には1.7%にまで落ち込んでいった。
小倉氏は、なぜ儲からないかについて徹底的に調べ上げた結果、小口輸送のほうが料金は高いことが判明した。50個口だと1個あたり200円、5個口だと1個あたり300円と1.5倍の差があった。
このような時代に吉野家は、いくつかあった料理のメニューを考え直し、牛丼1つに絞り込んでいた。サービスの多角化によって利益率を落としたヤマト運輸を「吉野家のように思い切ってメニューを絞り、(利益率の高い小口輸送である)個人の小荷物しか扱わない会社」になるべきだと思った。
気づきからの飛躍
気づきからの飛躍 小倉氏は、個人宅配事業の仕組みについては、いろいろと思考実験を繰り返していた。そんな彼がアメリカへの出張において、お手本となるモデルとの運命的な出会いを果たす。
物流大手UPSの集配車がニューヨークの十字路の回りに4台停まっているのを見て、綿密な配送網の存在意義を閃いた。集配車1台ごとの収支計算をし、確信を得た。人件費、ガソリン代、減価償却費などはほぼ一定だとすれば、1日にどれぐらいの荷物を運べるかという作業効率が問題になる。
何年ぐらいで損益分岐点に達することができるかを試算した、結果「一台当たりの集荷数を増すことができれば絶対に儲かる」ということが判明した。 しかし、一般の個人から個人への宅配サービスは、当時存在しなかった。ヤマト運輸にとっても未知の世界であった。
荷物の総量を増やすためには一般の人にサービス内容を理解してもらい、普及していけなければならない。 その商品化イメージのお手本になったのが、日本航空の「ジャルパック」である。
旅行は1人ひとり、目的も行き先も異なる。一般の人が気軽に行けるという時代ではなかっただけに画期的だった。ジャルパックの方式はチケットや宿泊をパッケージ化した。素人でも海外旅行に行けるようにした。 そこで、個人向けの宅配も、家庭の主婦にもわかりやすくし、サービスの商品化を追求した。
料金は「地域別均一料金」として、日本の地理に詳しくなくても納得してもらえるようにし、原則として、「翌日配送」とした。こうして、「地域別均一料金」と「翌日配送」という商品パッケージが生まれたのである。
しかし、宅急便には大きな不安があった。宅配のニーズは偶発的に生まれるため予測が難しい。また、どこへ配送するかも集配しに行ってみなければわからない。偶発的かつ散発的であるため、集配が著しく非効率となり、採算性など考えられない、というのが当時の業界の常識であった。
小倉氏は、なんとか事業化したいという一心で、この常識を疑うことから始めた。考えに考え抜いた末、1つのことに気づいた。個々の需要は偶発的に起こるとしても、ある地域から別の地域というように大きく括れば、一定の荷物が安定的に流れているはずだと。
問題は、散在している小荷物をどのように一つひとつ拾い上げていくかである。小倉氏によれば、それは、「一面にぶちまけてある豆を、一粒、一粒拾うこと」に等しい。ヤマト運輸の支店に持ち込ませる場合、一般の人は集配の所在地はわからない。いかにして、散在する荷物を集めればよいのか。
馴染みのある米屋や酒屋に扱ってもらうという発想
その答えが、馴染みのある米屋や酒屋に扱ってもらうという発想 米屋、酒屋を取次店として荷受けを行い、原則として500円程度で翌日配送を1個口から受け付ける「宅急便」サービスであった。
小倉氏は、青写真を実現していくための明確な指針を立てた。それは、荷物の密度が高まるまでコスト計算はしない。彼は、この方針を徹底させるため「サービスが先、利益は後」という標語を打ち出した。
宅急便を始めた以上、荷物の密度がある線以上になれば黒字になり、ある線以下ならば赤字になる。荷物の密度をできるだけ早く濃くするのは至上命令とする。そのためには、サービスを向上して差別化を図らなければならない。コストが上がるから止める、というのは、考え方としておかしい。
それゆえ、宅急便の開始と同時に従業員を増加していった。物流の拠点となるセンターを設置し、人口の少ない過疎地であろうと、車を5台配置した。 また、配送先が見つからない場合、送り主に電話をかけるように促した。宛先の住所で、「一丁目」と「二丁目」を書き間違えるということはしばしばある。
当時の長距離電話の料金は高かったが、それでも、「翌日配送」を徹底するために電話で確認した。感謝してもらい、信頼を得るほうが大切だと考えたのである。 実際、サービスを開始すると、従業員たちは前向きになり、かつまじめに取り組んでくれた。
もちろん、1個口の宅配は、集荷するにしても配送するにしても手間隙がかかってしまうのだが、構想の段階から労働組合の協力も得られ、徐々に体制も整っていった。
仕事の喜びを感じる
何よりも、従業員が仕事に対して喜びを感じるようになった。これまで商業用貨物を扱っていたときは、荷主の担当者から「あごで使われていた」という雰囲気であったが、一般家庭への宅配は感謝やねぎらいの言葉をいただけた。それまで「ありがとう」、「ご苦労様」などと言われた経験もなかっただけに勤労意欲が向上し、手間隙についての苦情もなくなった。
こうして取り扱い個数は順調に伸びていった。宅急便を開始したのは1976年であるが、開始年次からの4年問、170万個、540万個、1088万個、2226万個とまさに倍々ゲームのような伸びをみせた。
そして、開始4年目の1979年に重大な決断を行う。商業貨物の大口取引先2社との取引を解消し、小口の宅配輸送の宅急便事業一本に、吉野家をお手本として絞り込むことにした。
見過ごしてしまえばどうということのない現実から大きな飛躍を導くヒント得て、小口荷物を原則翌日配達にした。そして、トップの信念と決断の賜物が直ぐに確実に届けてくれるという顧客のニーズとそれを可能にする配送網の仕組みという斬新なビジネスモデルを築き上げた。
参考文献: 「模倣の経済学」(井上達彦 /日経BP社)