体験から学ぶ

モノがあり余り、成熟した現代では、人々は物的満足よりも、より高次な精神的満足を求めています。単なるモノを超えた「何か」を、消費者は無意識に欲しています。 そこで、体験(エクスペリエンス)をブランドの価値と認識する動きが高まってきました。商品やサービスを購入するだけでなく、それを通じて心に残る体験をしてもらい、高い付加価値を創り出すのです。

商品、サービス、デザイン、価格、スタッフ、空間など様々な要素で「楽しい」「うれしい」「ワクワク」を演出します。ニーズを満たすのはもちろんのこと、顧客自身が気づいていなかったウォンツをも引き出し、新しいライフスタイルを提案します。

価値観が多様化した時代の、顧客一人ひとりの欲求を満たすことで、他社の競合商品との差別化を実現できます。また、コモディティ(必需品)化のワナに陥ることも防げます。

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1990年以前、アメリカ人にとってコーヒーは、ただの必需品でしかなかった様です。朝あるいは昼食後の眠気覚ましとしてクイッと飲むだけの飲料水だったようです。

1971年創業のスターバックスに、マーケティング責任者として、ハワード・シュルツが入社したのは1982年、29歳でした。翌年、イタリアを訪れた彼は、街のあちこちにある小さなエスプレッソ・バーに感銘を受けます。

カウンターでの気さくなやりとりをしながら、バリスタ(コーヒーを淹れる人)は優雅にエスプレッソを注ぎ、カップを手渡します。バーは、心地の良い雰囲気に包まれていました。 シュルツは驚きました。ここは、ただコーヒーを飲んでひと休みするだけの場所ではなく、寛げる素晴らしい体験(エクスペリエンス)になる「劇場」になっていました。

コーヒーショップを超えた第三の場所を

そんな彼が目指したのは、単なるコーヒーショップを超えた、自分自身を再発見する場。家庭、職場・学校に次ぐ"第三の場所"でした。

スターバックスがこれほど支持されている理由は、クォリティーの高いコーヒー、心のこもった接客、インテリアなどで寛げる場を提供しているのです。顧客はその雰囲気から何より「自分の場」だと感じられ、期待を超えたからだと考えています。

そのために最も重要であり、シュルツが何よりも大事にしたのが、彼が「パートナー」と呼ぶ従業員たちでした。

そんな彼の姿勢は、全米企業を驚かせた福利厚生にも表れています。すべての従業員に健康保険を適用し、ストックオプションを与えました。週20時間以上勤務するパートタイマーにまで適用範囲を広げた企業は、前例がありませんでした。

実は、彼がそこまでこだわった背景には、シュルツ本人の個人的感情があります。彼はニューヨーク州ブルックリンの貧しい団地で育ちました。父親はブルーカラーのきつい仕事を転々としていました。シュルツが7歳のある日、仕事で大怪我をした父親は、その日に解雇されました。

労災保険、健康保険、解雇手当もありませんでした。また、仕事に達成感を抱くことも、意義を見出すこともできませんでした。彼は、働く人が決してそんなことにならない企業を作りたかったのです。

スターバックスが世界を変えた

こうして、スターバックスは時代を先取りした企業という立場を築きましたが、それ以上に意義深いのは、アメリカの、そして世界中の人々の、コーヒーに対する考え方を変えたことです。「コーヒーは楽しむもの」、という意識改革を植えつけました。

ただ物を売って儲けるのではなく、ささやかではあるが有意義なやり方で人々の生活に潤いを与えたかった。この「人々に奉仕する」という精神が、スターバックスの成功の要なのである。従来どおりのマスマーケティングを捨て、1店舗で1杯のドリンクを飲む顧客ごとに、心の通った永続的な関係を築くことに焦点をあてたものです。

スターバックスがコーヒーという日用品を販売して、実に多くの偉業を達成し、どのようにこれほどの繁栄を築いたか、ビジネスの世界ではほとんど知られていないのが実情でした。

なぜ.スターバックスは成功したのか?

ビジネスを成功させるには多くの道があります。価格と利便性を追求して顧客を惹きつけようとする企業は多いです。商品やサービスはあくまでも物に過ぎないという考え方です。

だが、このように、必要とされる商品やサービスを迅速かつ便利に安く提供することに重きが置かれている状況では、技術が優先され人との交流は最小限に省かれてしまいがちです。

そこに、人とのふれあいを重視した顧客経験価値(どう売るか)を提供する会社が参入する余地があります。 卓越した商品やサービスの提供を追求する企業は、必需品は手間をかけず、考えることもなく売買するという小売業界に慣れてしまった顧客から大きく注目されるのです。

スターバックス体験がブランドをつくる

バリスタは客との会話を楽しみながら濃厚で力強いコーヒーをいれるスキルを習得していたし、来店した人々に、美味しいコーヒーを楽しみながらくつろぐという体験、すなわち「スターバックス体験」を提供しました。

スターバックスは従業員をコーヒーエキスパートとして位置づけていて、彼らはまさに専門家です。スターバックスの従業員は扱っているコーヒーについて何から何まで知っています。コーヒー豆の焙煎について、品種、ブレンド、単一産地のコーヒーの味の違いについて、そしてバーカウンターの中でつくったドリンクの誕生秘話について、すらすらと話すことができました。

良い豆を選び完璧に焙煎したからといっても、失敗する要素は多々あります。豆の風味の句は短いです(期限の過ぎたコーヒーをチャリティに寄付するのはこの理由から)。コーヒーの種類によって粗挽き、細挽きなど挽き方を調節しなければなりません。コーヒー粉と水の割合は正確でなければなりません。

水はフィルターを通し、高純度なものでなければなりません。抽出時間は正確でなければなりません。そして、コーヒーはいれたてでなければならないのです。これらを見れば、なぜブランディングではなくコーヒーに力を注いできたか、分かるでしょう。

次に注目したのは店舗づくりでした。店舗そのものは清潔で整理された状態を保ち、商品を中心に据え、落ち着いた温かい雰囲気にしました。 すべてコーヒーを味わうときに体験することを考えて、決してブランドは意識していません。

ところが、事業内容に忠実に正面から向き合って取り組み続けたおかげで、強力なブランドという副産物を生む事業を築くことになったのです。 商品の性能や顧客経験価値の向上にはコストをかけず、何百万ドルもかけイメージキャンペーンを展開しブランドを確立しようとする企業が大多数です。

彼らの焦点は、商品に対する情熱から商品の外見に対する情熱にすり替わってしまっています。 事業内容ではなくブランドに予算をかける企業は、事業内容こそがブランドだと気がついていないのです。

ブランドを最大限に活かせるようになるには、日々自分たちの事業に忠実に向き合い、取り組み続けていかなければなりません。 事業をつくらずしてブランドをつくることはできません。事業を築いていくうちに、ブランドが生まれていくのです。

参考文献: 「スターバックスに学べ!」(ジョン・ムーア 著 / ディスカヴァー)

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