■歌舞伎町のジャンヌ・ダルク
何かをやり遂げようとする時、ハードルが高ければ高いほど、堅固な「想い」が必要になります。その想いは不屈で、不退転なほど、夢や目標は実現出来るのだと思います。その想いを持ち続け、粘り強く行動をし続けていれば、やがて「信念」になり、そして「使命感」になるのだと思います。
経営のトップ層が使命感を持って仕事に取り組んでいけば、社員たちは自然とそれに気づき、同じ気持ちになっていくはずです。経営不振で入れ替わった経営者が、使命感を抱き、私利私欲がなく、その素晴らしい思想を社員とともに共感、共鳴できる体制を創ったことにより、短期間の内に立ち直ることができたケースが見受けられます。
経営をリードする者の最も重要な仕事は、己を律し、率先垂範し、その上で人材を育成することです。そして、社員の信頼と自主的な行動が起これば、業績は間違いなく向上していきます。
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東洋一の繁華街、眠らない街、歌舞伎町。かつては日本一のクレーマー地帯とも言われた街に「歌舞伎町のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる女性がいます。あるホテルの支配人である彼女は、ヤクザやクレーマーに臆することなく向き合い、安心・安全なホテルを実現するために奮闘してきました。
彼女の信条はただひとつ、怒鳴られたら、やさしさをたった一つでも多く返す
自分がされてうれしいことをして差し上げよう。されて嫌なことは、誰にもしないようにしよう。そんな、幼い頃教わったような、シンプルな原則です。
一般人として考える「やさしさ」や「正しさ」は、ホテルの支配人だからといって何ひとつ変わるものではないし、ビジネスだからといってその常識を捨てる必要もない。困っている人がいたら手を貸し、間違ったことをしている人がいれば、間違っていると指摘しよう。そんな想いを胸に、彼女は現状に立ち向かっていきます。
もちろん、それは過酷な戦いでした。「やさしさ」とは、クレーマーやヤクザの言いなりになることではありません。時に危険な目に遭いながらも、それでも彼女は、怒鳴り声の奥に隠された、やさしさや人間味を信じ続けました。
怒鳴られてもやさしい気持ちを失わないように、人を信じることをやめないように。その一心で、粘り強くNOを示し続けた結果、やがてホテルや街に変化が起こりはじめます。 これは「信じる心」がもたらした、テレビドラマよりドラマチックな、奇跡のような、本当にあった出来事です。
日本刀を振り上げられて…
東北地方出身の女性、三輪康子は、ホテル経営の知識も経験も全くないまま、ある有名ホテルグループ支店の支配人に採用されます。彼女が任されることになったのは、なんと新宿歌舞伎町店でした。
着任当時、そのホテルのロビーではヤクザがたむろし、最上階は彼らが占拠している状況でした。誰もが安心して利用できる、安全なホテルにするためには、まず彼らに出て行ってもらうことから始めなければなりません。
そんなある日のこと、事件が起こります。「支配人、すぐ来て下さい、大変です。」 フロントからの連絡を受け、三輪が一階に駆けつけると、身長190センチほどのスキンヘッドの男が待ち構えていました。男は、ドスのきいた声で凄みます。
「こらア、オンナ。お前が支配人だと? ふざけんな!俺を泊めないとはいい度胸だな。ぶっ殺されてえのかよ、オイ!」 耳をつんざくような怒声に、その場の空気がビリビリと震えます。
「いいえ。しかし、当ホテルではお客様のような方はお泊まりできないようになっております。」
「俺がヤクザだからかよ。ああ、差別かよ、おい。客に向かって失礼だろうが!」 「大変申し訳ありません。お泊めすることはどうしてもできないのです。」
仁王立ちになった男の眼が異様に光り、みるみる血走っていきました。そして男が紙袋からすらりと取り出したのは、抜き身の日本刀だったのです。
けれども、男がそれを構えたとき、三輪は後退りするどころか、一歩前へと進み出します。懐に入って来られて、驚いたのは男のほうでした。
「オイ、怖くねえのかよ。俺が怖くねえのかよ……。」
本当は怖くて、足元が震えていましたが、彼女は「怖くありません。」と言い切ります。 予想外の反応に、男は戸惑いを隠せません。
「なんで、……なんで、おまえ怖がらねえんだよ。」 そのとき、思わず彼女の口から飛び出したのは、こんな言葉でした。
「お客様に、私は殺せません!」
「おう、俺におまえが殺せねえっていうのかよ。オイ、試してみようか。」 「いいえ、お客様には私は殺せません。」 今度は落ち着いた声で繰り返します。やや間があって、男は振り上げた刀を下ろし、ホッと肩の力を抜いて、こう尋ねました。
「なあ、聞かせてくれよ。あんた、なんでそんなに勇気があるんだい?」
「いえ、私は人間を信じているだけです。」 そう答えながら、彼女は自分でこのセリフを反芻していました。
「支配人さん、あんたすげえな。」 男は表情を緩ませ、身の上話を始めました。聞けば、組を破門になって自暴自棄になっていたとのこと。その行き場のない気持ちが、彼を暴走させたのでしょう。そして、過度におびえない三輪の対応に、どうやら我に返ったようでした。
「どうかがんばってくださいね。」「おう。支配人さんも、体に気をつけてな。」 人を信じる彼女にとっては、当たり前の態度でしたが、その想いはちゃんと相手に伝わったのです。
ドアの前で立ってろ!
また、あるときには、こんなことがありました。 お客様からの、夜中の内線電話。エレベータの乗降客の声がうるさくて眠れないから、部屋を替えろと言います。その部屋は、エレベータのすぐ近く。忘年会シーズンで、遅くまで遊んでいた人たちが、廊下を騒ぎながら歩いていったようです。
「申し訳ございません、お客様。お休みのところ、ご心痛だったと思います。大変失礼いたしました。あいにく、当ホテルはただいま満室でして…」 「何言ってるんだ!部屋を替えろ。いますぐ用意しろ!」 その男性は怒りを抑えることができません。別の部屋を用意できないのなら、値引しろと叫びます。 三輪は、こう申し出ました。
「それでは、私がドアの前に立って、エレベータから降りるお客様に、静かにしていただくように注意します。」
「そうか、ドアの前に立って注意してくれるって言うんだな。でも、いつ客が騒ぐかわからないよな。そしたらあんた、どう責任取ってくれるの?」
彼女はこう請け負います。 「それでは、ひと晩中、ドアの前で通行される方に注意いたしましょう。」
「いい加減なこと言うな!ひと晩中だぞ!本当に立っているんだな?」 「はい。お約束いたします。でも、一つだけお願いがございます。トイレは我慢できません。トイレにだけは行かせてください。」
あっけに取られた客は、 「フン、できるって言うんだな!できなかったらどうなるか、わかってるだろうな!見張ってるからな!ひと晩中立ってろ!」
そう言って、荒々しくドアを閉めました。三輪は約束通り、ドアの前に立ちます。3時間たった頃から足が痺れ始めますが、ついに朝まで、一睡もせずそこに立ち続けました。 7時くらいになり、すっかり落ち着いた客が、部屋から出てきます。
「おはようございます、お客様!」 彼女がにっこり挨拶すると、 「あんた…どうしてそこまでできるの?」
「お客様とのお約束ですから。」 前夜の相手の表情を見て、そうするのが一番いいと判断したのでした。
少し間を置いて、客はこう言います。 「あんたが気になって、ドアの覗き穴から見ていたよ。どうせ、あの女は適当なことを言ってんだろう、俺が寝た頃を見計らって、ドアの前からいなくなるに違いないと思っていた。2時に覗いてみた。あんたはちゃんと立っていた。
それだけでも驚いた。そのあともう一度見たが、やっぱりそこにいた。俺は寝ていられなくなって、4時にも4時半にも見た。さすがに寝入ってしまい、起きたらこの時間だ。ドアを開けると、やっぱりあんたは立っていた。」 そこまで言うと、客は初めてすがすがしい笑顔を見せました。
「支配人さん、あんたは大したもんだ。今年の最後になって、いいものを見せてもらったよ。きっとまた、このホテルに泊まらせてもらうよ。」
「人を信じる心」と「やさしさ」が相手の心まで届き、不信感や怒りを溶かしたのです。クレーマーがファンに変わった瞬間でした。
三輪は相手を中心に考え、自分を律し、人のために生きる覚悟ができており、先を見通す論理性と人間の機微がわかる感性で折衝してきました。
三輪が持っている人間力がスタッフや警察署の人々、地域の人々、クレーマーをも味方に巻き込み、歌舞伎町全体を安全で明るくしました。そうして、歌舞伎町のジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになったのです。
参考文献: 「日本一のクレーマー地帯で働く日本一の支配人」(三輪康子 /ダイヤモンド社)