■「選択」を科学する
組織を活性化して会社を発展させていくには、社員が主体的に行動し、いきいきと仕事に取り組める環境づくりが必要不可欠です。「主体性を発揮する」ことは、コヴィー博士が提唱する「7つの習慣」の中でも、第一の習慣に挙げられています。
誰かの指示を待つのではなく、自ら考えて実行する習慣を身につけるには、各自が行動を起こすときに「選択」できる環境や条件が整っているかどうかが大きなカギとなります。課題や難題に挑戦するとき、その解決法を自分で見い出し、創意工夫と努力で乗り越えることができれば、その人はきっと、大きく成長できるでしょう。
個人のためにも、組織のためにも、そのような「主体性発揮」と「選択」の機会を積極的に設けたいものです。
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私たちは日々、「選択」しながら生きています。レストランで何を注文するか、スーパーマーケットで何を購入するかといった意図的な選択だけでなく、ごく些細な無意識の習慣や行動、つまり朝起きてから夜眠るまでのあらゆる動作や思考さえも、あなたの「選択」の結果なのです。
ヒトも動物も、生まれつき「選択したい」という欲求を持っています。そして、「選択」の自由があるかどうかが、私たちの心身の状態にとても深く関わっていることが、様々な研究によって明らかになってきました。
認識の重要性
何かを選択するためには、自分の置かれた状況を自分の力で変えられるという「認識」を持っていることが大前提です。この「認識」がなければ、選択することはできません。
ある精神生物学者らの実験によると、ラットを1匹ずつガラス瓶に入れて水を注ぎ入れたとき、溺死するまでの時間に大きな差が出ました。肉体的限界まで数十時間泳ぎ続けるラットと、すぐにあきらめてしまうラットという二極的な結果に、研究者たちは驚きました。個体間に体力差はなく、すべてのラットに強い生存本能がはたらいていたはずです。では、なぜこのような差が生まれたのでしょう?「苦境を脱出できる」という信念を持っているラットと、そうでないラットが存在するのでしょうか?
そこで今度は、まずラットをつかまえ、そのあと逃がすことを数回繰り返し、その後、ガラス瓶に入れて水を浴びせてからケージに戻す、というプロセスを再び繰り返しました。それから前述の実験をしたところ、なんとすべてのラットが力尽きるまで泳ぎ続けたのです。彼らは捕獲者から逃げ、水の噴射も切り抜けた経験から、自分が不愉快な状況に耐えられることを知ったのでしょう。そして、もしかしたら自分の力で結果を変えられるかもしれない、と学んだのです。
一方、犬を使った別の実験では、不快な状況を自力で変えられない無力感を味わった犬は、その後自分で状況を変えられるようになっても、そのまま苦痛に耐え続けることがわかりました。それは、自分がコントロールを取り戻したことを認識していなかったからです。このことから、「実際に状況をコントロールできるかどうか」よりも「コントロールできるという認識」のほうが、はるかに大きな意味を持つことがわかります。
囚われの身のストレス
贅沢なホテルを想像してください。いつも豪華な食事が用意され、日中は好きなように過ごし、夜は心地よいベッドで眠れます。にこやかなスタッフがどんな要望にも応じてくれるし、最先端の医療も受けられます。しかもすべて無料なのです。ただし、ひとつだけ条件があって、一度チェックインすると永久にそこから出られません。
夢のような話ですが、実は動物園の動物にとっては当たり前の状況です。彼らは一見、何不自由なく暮らしているように思えます。けれども、いくら飼育員たちが自然な生育環境に近づけようと努力しても、園に閉じ込められた生活はやはり本来の生存本能とは相容れないため、動物たちのストレスの原因となり、脱走、免疫システムの弱体化、潰瘍、寿命の縮小、出生数の減少など、様々な問題を引き起こしています。
「選択」せずにはいられない
ヒトも動物も、選択する能力と同時に「選択したい」という欲求を持っています。たとえ得られる報酬が同じでも、この欲求にかられて、選択肢の多いほうを選んでしまうのです。
生後4ヶ月の乳児を対象にした研究では、まず乳児の手にひもをつけ、それを引っ張れば心地良い音楽が流れることを教えました。その後、ひもをとり外し、ランダムな間隔で音楽を流したところ、自分の意思で鳴らしたときと同じ時間音楽が聴こえたにもかかわらず、乳児らは悲しげな顔をしました。子供たちはただ音楽が聴きたかったのではなく、聴くかどうかを選択できる力を渇望していたのです。
自己決定権と健康
1976年の高齢者介護施設での実験は、決定権と健康の関連性について、とても興味深く有意義な結果を示しています。
心理学者は、施設の入居者全員に鉢植えを配り、木曜か金曜のどちらかに映画を観てもらい、他の入居者を訪ねてお喋りすることや、読書やテレビを楽しむことを許可しました。ただし、入居者たちを「選択の自由度が低いグループ」と「選択の自由度が高いグループ」に分け、自己決定権の認識を操作しました。
前者のグループには鉢植えの世話は看護師がすると伝えられ、映画鑑賞の曜日は選べませんでした。「入居者はある程度の自由が許されているが、彼らの健康は職員が責任を持って管理する」という説明があり、世話係は「この施設を皆さんが誇りに思い、幸せを感じられる家にするのが私たちの務めです。皆さんのお世話をするために努力して参ります。」と述べました。
もう一方のグループには、好きな鉢植えを選んでもらい、自分で世話するように言いました。映画も、どちらの曜日に観るか選べると伝えました。そして、「この新しい家が楽しい場所になるかどうかは皆さん次第、どんな人生にするかも皆さん次第ですよ。」と強調しました。
このように、ふたつのグループの生活にはそれほど大きな差はありませんでした。しかし3週間後の調査では、後者のグループの入居者たちは、前者に比べ満足度が高くいきいきしていて、他の入居者との交流も盛んでした。そして、前者のグループに健康状態の悪化が見られたのに対して、後者では健康状態の改善が見られました。さらに6ヶ月後の調査では、後者のほうが、死亡率が低かったことが判明しました。
「選択」の自由と可能性
この研究からわかることは、たとえ些細な選択であっても頻繁に行うことで、「自分で環境をコントロールしている」という意識を意外なほど高めることができるということです。それは、小さなストレスが蓄積していくと大きな害を及ぼすということの裏返しでもあります。
「選択」する対象や行動、結果は人それぞれですが、「選択したい」という欲求と必要性は万人共通です。私たちは、自分あるいは他人に選択の自由を与えることで、精神的・肉体的状態を大きく変えられる可能性を持っています。選択の権利を通じ、それを共有し合うことで、気質や文化、言語や国境すら越えて、精神の中に無限の希望と可能性を育むことができるのです。
これは仕事においても当てはまり、自らの選択によって進んで仕事に取り組むか、それとも待ちの姿勢で臨むかによって大きな差が生まれます。明確な意思を持たず、ただ人から言われたことをこなしているだけ、というような場合、問題や困難にぶつかったとき、安易に「どうしようもない」「仕方ない」「○○でないとだめだ」「○○でさえあったらなぁ」などとあきらめの態度を示して、他人や環境に責任を転嫁しがちです。
それに対して自ら選択していくことは、主体性を発揮することです。そしてそれは、自分の価値観に基づいて行動し、自分を取り巻く状況そのものを自ら創り出すことなのです。
幸福に外部の条件は関係ない。心の持ち方に依存するのだ。
(デール・カーネギー 『人を動かす』より)
参考文献:『選択の科学』(シーナ・アイエンガー / 文藝春秋)