■逆境が大きな成長の糧に
人は仕事をすることで、さまざまな経験をし、与えてもらい、成長している。さらにその経験をもって、他人をも成長させていくのです。企業の中でそのような経験が活発に行われ、多くの人が成長し、同時に企業も成長していく。 自分自身の考えをしっかりもち、周りと意見し合っていくことや、自分なりの考えで問題を発見し、解決する能力を身につけていくことは非常に大切なことです。
業務を遂行していく過程では、必ず困難な課題や人が嫌がるような仕事に遭遇する。 そのとき、明確な人生目標をもち、自分の良心と信念に基づいていれば、人の嫌がることでもいい意義を見つけられます。それに挑戦して何度も失敗をしても、最後にやり遂げることが大きな成長につながる。
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瀬戸雄三氏(元アサヒビール社長 社長時代販売シェアでキリンを抜く)は順風満帆に出世して地位を築いたのではなく、この路線とは大きくかけ離れている人物である。社内でも相当の"問題児"で、失敗と左遷を繰り返してきた。 最初に左遷されたのは、入社して3年目のことだった。大阪支店から神戸出張所(後の神戸支店)に飛ばされたのである。
ある時、当時の大阪支店長、つまり自分の上司が、キタのとあるバーに足繁く通っているという情報を入手した。この支店長は東京からの単身赴任で、自宅に帰っても仕方がないから、外で飲んでいたのだろう。 しかし私は、これを聞いて義憤に燃えた。ビールメーカーの営業マンは、飲むのも仕事のうちである。一夜に何軒もハシゴしながら、「アサヒをよろしくお願いします。」と言って頭を下げる。
これが当たり前の姿だ。その模範となるべき支店長が、一軒の店に入り浸るとは何事か。 2年上の先輩とともに、その店に乗り込むことにした。 すでに夜の11時頃で、相当にお酒が入り、調子がよくなっていたことは認めざるを得ない。 店のドアを開け、ママに向かって開口一番。「アサヒの瀬戸です。うちの支店長がいつもお世話になっています。」 すると、ママの様子がおかしい。しきりに目配せをする。その方向を見ると、そこには何と我が支店長の姿。私は一瞬青ざめた。
一緒に行った先輩は、かつて東京で勤務した経験があり、支店長とはなじみが深い。支店長は先輩の名を呼び、自分の席に招き入れた。だが、私の名は呼ばない。それでも先輩にしたがって恐る恐る席についたが、支店長は先輩と話すばかりで、私とはまったく口をきかない。「若造のくせに生意気な。」と思っていたのだろう。 その場が針のむしろだったことは言うまでもない。
翌日、支店長に「咋晩は失礼いたしました。」私はこう述べて頭を下げた。 支店長は黙ったまま私をチラッと見ただけ。再び机上の書類に目を戻してしまった。とりつく島もないとはまさにこのことだった。 そして、約2カ月後転勤の辞令が下った。
厳しい人ほど「誠意」は通じる
当時、大阪支店の人員は約130名。しかも、大阪はアサヒビール発祥の地であり、60パーセント以上のシェアを占める金城湯池でもあった。それに対して神戸出張所は16名、シェアもとても大阪には及ばない。 この人事が左遷であることは明らかだった。
この辞令が出てからも、大阪に愛着があるため、1カ月ほど後片付けをしていた。ある日、業を煮やした支店長が、私の席にツカツカと歩み寄って一喝、「1カ月も片づけをするヤツがあるか。今から俺の車に乗れ。」そう言うと、支店長車に私を乗せ、神戸まで文字どおり強制連行である。 支店長は以前、神戸に勤務していた。そこで車で神戸へ向かう途中、そのうちの何軒かに立ち寄って、「今度、神戸に赴任する瀬戸です。よろしく頼みます。」と自ら私を紹介してくれた。
神戸が大阪に比べてはるかに厳しい戦場であることは、よく知っていたはずである。 「生意気な瀬戸を神戸で鍛え直そう。」と思ったのではないだろうか。 実際、着任早々、挨拶に伺ったある卸店で、いきなり窮地に立たされることになったのである。私が話をしている途中で、何が気に障ったのか、突然、社長が烈火のごとく怒り出した。 「お前のような生意気なヤツは来るな。帰れ。」事務所中に響きわたるような声だった。
理由が何かわからないが、おそらく大阪というアサヒビールの強い市場で営業をしていたため、私には自然とやや傲慢な態度が身についていたのだろう。必死にとりなしてみたが、怒りは収まらない。「帰れと言ったら帰れ。」事務所の中がシーンと静まり返ってしまった。 仕方なく退散し、所長に顛末を話して善後策を伺った。「毎朝、社長の自宅へ行け。」と厳しい言葉がかえってきた。
しかし、これは私にとって、大きな教訓の一つとなった。翌朝7時半に例の社長宅へ伺ってみると、相変わらず不機嫌なままである。 「お前、何しに来たんや。」の一言、「昨日のお詫びに伺いました。」と頭を下げても、「朝の忙しいときに家にまで来るな、帰れ。」これで終わりである。 だが懲りずに翌朝も、またその翌朝も伺うと、ようやく態度を軟化された。
「もうわかった。3日も来たんやから、許したるわ。」以来、私はこの社長に大変お世話になる。どれほど厳しい相手でも、誠意を尽くせば通じるということ、やはり営業は"心 "で行うものであるということを、私はこの一件から学んだのである。
厳しい環境だからこそ学べた
私は神戸の地で名誉挽回を決意していた。大阪でも仕事はしてきたつもりだが、幕切れがあまりにも悪い。その分は仕事で取り返そうと燃えたのである。 それには、大阪と同様、お得意様を徹底的に訪問するしかない。 だが、神戸でまず驚いたのは、大阪との激しいギャップだった。ある程度は予測していたものの、現実に肌身で感じたのはそれ以上だった。
たとえば大阪でお得意様を伺うと、新入社員の私に対してさえ座布団を用意し、お茶を出し、ゆっくりと話をしていただいた。 ところが神戸では、座布団やお茶はおろか、座ることさえままならない。「アサヒの瀬戸です。」と挨拶しても、無愛想な返事が返ってくるだけだった。 当時、私がある小売店で名刺を出すと、ご主人は無言のままそれをカウンターの上に置いた。 驚愕の事実に直面するのは、その1週間後にそのお店を再び訪問したときだった。
私の名刺はまだそのままカウンターの上にそっくり同じ場所にあったのである。いかにアサヒビールに関心がないか、イヤというほど思い知らされた。 この現状に、私は奮い立った。「この小売店から、絶対に椅子とコーヒーを出させてみせる。」と決意した。若いうちはこういうことが発奮材料になるのである。
その日から、私はこの店に3日とあげずに通いつめた。そして半年後、念願かなってコーヒーが出てきたときには、思わず快哉を叫んだものだった。 その後、この小売店ではアサヒビールもきちんと扱ってくれるようになり、最終的にはアサヒの主力販売店になっていただいた。若いうちに天国と地獄のマーケットを体験できたことは、非常にラッキーだった。
厳しい環境しか知らなければ、目標が見えてこないし、元気が萎縮したかもしれない。逆に恵まれた環境だけで過ごしたら、傲慢になってしまい、悪くなったときの対処法が見えなくなっていたかもしれない。この後のサラリーマン人生で、両方を知っているからこそ助かったことは数限りない。 逆境が人生のいい糧になったことは言うまでもないだろう。
最後に、瀬戸氏は「人の話を聞くくらいで、学んだ気になってはいけない。己が実行して、苦悩や失敗を通じて、何かを掴みとる姿勢こそが大切である。逆境に飛び込んで行動することが、仕事と人生にどれほど大きな成果をもたらすか、経験の重みを教えてくれる。」と感慨深い言葉を述べている。
参考文献:「逆境はこわくない」 著者 瀬戸雄三(元アサヒビール社長)徳間文庫