■ 上達するための大きな宝

  武道やスポーツ、あるいはピアノなど、ある種の「型」を修練した人というのは、ひとつのコツをつかんでいるといえる。つまり、物事か上達するための、大きな宝を得ているのだ。そしてこの考え方をほかのこと全般に応用してゆけば、上達というものに対して恐れはなくなる。 わからない、できないことがあったとしよう。

しかし、そういう「型」の訓練を積んできた人間は、ものごとには必す基本があるはずだと考える。そして、基本を徹底的に反復して練習し、自分のものとするだろう。基本を自分のものにしてしまえば、もう応用か次々ときくようになる。

「いまはできないかもしれない。しかし、基本さえしっかりと身につければ、やがてはできるのだ」と、落ち着いたメンタリティで、一見退屈な練習に臨むことかできるのである。それは安心感てあり、自信でもある。その後、たとえは違う世界のことに挑戦したとしても、簡単に気持ちか切れないですむ。

逆に、それがない人は考えてしまう。自分は結局できるようにならないのではないか。 いま要求されていることはおかしいのではないか。そのような疑いは非常に無駄で、精神の疲労を起こす結果にしかつながらない。
強調したいのは、ある特定の「型」を身につけるような地道なトレーニンクを、ひとつでもきっちり行ってきた人というのは、「退屈力」がそなわっているということだ。 退屈に耐えられる力という意味だけてはない。退屈なことを繰り返すことの意味を知っているのだ。

昔、しっかり野球をやっていて、バットの素振りや、千本ノックの経験かある学生かいたとする。あるいは剣道をやっていて、惰刀の素振りの経験かある学生がいたとする。そうすると、そういう学生に読書のことを教えるのは、経験のない学生に教えるのより、比較的簡単である。それまでまったく本を読んでこなかったとしても、反復練習するメンタリティが身についているからだ。

それを思い出させて、「要するに、そのときの心のあり方というのを、ここで応用すればいいんだよ」と言えは、「そうか、もう一回素振りなんだ」と、わかってくれる。語学の学習なら、手を動かして、声を出して単語をおほえなくてはいけない。
「それは、走りこみや素振りと一緒なんだよ」と言えは、「なるほど」と理解してくれるのだ。 自分は野球には打ち込んできたけれど、勉強はからっきしですと言う学生もいる。あまりに領域が違いすぎると、乗り越えるのはむすかしいと感じるかもしれない。

重要なことは「そこで得たものは野球の技術だったのではなく、[退屈力] だったんだよ」と。「素振りがいつでも面白かったわけじゃないでしょう。でも、続けているうち、面白さを感じたこともあったでしょう。そして、技術を自分のものにできた充実感があったでしょう」と。

その学生には、すでに、上達するための「力」がそなわっているのだ。だから、勇気を持って取り組んで大丈夫だと、諭してあげられられる。 身近な例で考えてみよう。大学で体育会に入って、運動ばかりしていた学生が、卒業して一般企業に就職してから、バリバリと仕事をこなしている例はたくさんある。授業は最低限しか出なかったかもしれない。語学の勉強も手を抜いていたかもしれない。

しかし、「退屈力」が備わっている彼らは、新しい世界で、一から積み上げることに臆病にならず、むしろ積極的に取り組むことができる。なかなか成果が上がらなかったり、くじけそうになることがあっても、すぐに折れない心を鍛えているから、粘り強く立ち向かっていける。

だから、スポーツや音楽などの部活動を指導するときに、生徒に上達することの普遍的な原則を伝えているのだと考えながら指導できるのが、教育力のある教師といえるだろう。 何らかの「型」の練習に取り組んでこなかった人は、反復の積極的意味が体でわかっていないことが多く、トレーニングすることに耐えられない。

教師が「我慢して続けていけば必ずゴールに到着するよ」と言っても、「素振り」をしてこなかった人には、なかなかそれが信じられないのだ。

たとえば、営業マンが営業日報をパソコンで入力することが面倒であるとの単純な理由で、報告をしなくなると、お客様との大切な商談情報がデータベースに蓄積されなくなる。すると、お客様から問題提起やクレームが発生したとき、その問題を解決するため、そのお客様の貴重な情報がないため、迅速な対応や適切な判断ができなく、お客様の信頼を失うことになる。
参考文献:「退屈力」 著者 斎藤 孝 文春新書