イノベーションの種は・・

現在、現場で培った業務知識やスキルが、急速に陳腐化する時代、イノベーションの追求、リーダーシップのありかたが問われています。そこで、多様な意見が歓迎される風土を醸成することが求められます。人と異なるということ、ユニークであるということをポジティブに評価する組織風土を作るということです。

組織風土とは、結局のところ、経験的に学習された行動・意思決定のパターンの集積です。 したがって、多様性が尊重される組織風土に転換するためには、ユニークであることによって何らかのポジティブなフィードバックが行われ、「ああ、こうすると得になるんだ」という強化学習が行われる必要があります。

その結果、一人一人が変わり、組織が変かわるように、部下が前に進むのを後ろからバックアップするサーバントリダーシップスタイルが求められています。

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イノベーションは「新参者」から生まれる

なぜビートルズはリバプールから出現したのか? 過去の歴史をひもといてみると、不可解な場所からクオリティの高い知的生産物が生み出されていることがあります。たとえば20世紀以降のポップミュージックのあり様を変革したロックグループであるビートルズは、ロンドンではなくリバプールから出現しました。

当時から、イギリスにおける音楽の中心地といえばロンドンであった。リバプールは大西洋航路のノスタルジーにひたる地方の港町で、特に音楽文化が花開いていた場所ではありませんでした。

その田舎の港町から、世界を変えるロックグループがなぜ現れたのかと考えてみると、これはとても不思議なことではないでしょうか。もちろん、いくつかの複合的な要因が作用しているわけですが、音楽史の関係者が共通して挙げる大きな理由のひとつが「当時米国で生まれつつあった新興音楽であるロックのレコードが、最も早く持ちこまれたのがリバプールだった」という事実です。

リバプールは、当時イギリスとアメリカを結ぶ大西洋航路の主要な港でした。当時の大西洋航路の船員は、船内でのヒマつぶしのためにアメリカで大量のレコードを購入し、船内で聴き尽くしたレコードをリバプールに上陸すると同時に、売り払うということを繰り返していました。

結果、リバプールの町には船員たちが持ち帰ってきたアメリカの様々なレコードが溢れることになったわけです。そのレコードを聴いて目を輝かせていたのが、当時高校生だったジョン・レノンでありポール・マッカートニーでした。彼らは、アメリカから持ちこまれるロックと、イギリスで当時流行していたスキッフルなどの音楽を交配させることで独自の音楽スタイルを築き上げ、ビートルズが生まれることになったのです。

なぜルネサンスはフィレンツェから始まったのか

ルネサンスとは14〜16世紀にイタリアを中心に起った古代の文化・芸術を復興させようとする運動の総称です。中でもフィレンツェを中心に興ったイタリアルネサンスは、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロ、マキャベリといった多分野にわたる天才を生み出しました。

フィレンツェはとても小さな街で、せいぜい10キロ四方の広さしかありません。フィレンツェで創造性が爆発した盛期ルネサンスは15世紀半ばから16世紀半ばのことですから、たった100年足らずの間に10キロ四方にも満たない町から、美術史あるいは科学史に特筆されるような天才が次々に誕生したわけです。

フィレンツェにおけるルネサンスの開花には、メディチ家が大きく貢献したと言われています。フィレンツェで銀行業を営んで大きな繁栄を築いたメディチ家は、その持てる富を絵画、彫刻、建築、文学、政治学などの幅広い分野に提供し、多くの才能ある人材をフィレンツェに集めました。

高度経済成長期と日本のイノベーション

太平洋戦争期において様々な領域で研究開発を行っていたエンジニアがGHQの指導によってそれまでの活動を継続できなくなり、異なる分野、それも多くは民生分野に身を転じることを余儀なくされました。

この研究領域のシフトが、多く分野で様々な新結合を促し、イノベーションを生み出す要因なったのではないかと想定されます。

たとえば、欧米の自動車技術から一歩も二歩も遅れをとっていました。しかし、傑作小型車「スバル360」が「東洋にスバルスターあり」と欧米自動車技術者の心胆を寒からしめました。

それを生みだしたのは百瀬晋六をはじめとする富士重工の開発チームです。 そのチームに多くの航空機技術者が参加していました。

また、マツダ(当時の東洋工業)において「不可能とまで言われていたヴァンケルロータリーエンジンの開発を主導したのも、戦時中は戦闘機設計に従事していた山本健一を中心とした平均年齢25歳の混成チームでした。

また、東海道新幹線において車台振動の問題を解映したエンジニアも、航空機のフラッター問題(航空機の翼が高速時に振動を起こして破壊される問題)の專門家でした。

航空機エンジニアとして教育を受け、キャリアを築いてきた彼らにとって、自動車や鉄道へのキャリアシフトは必ずしも本意ではなかったかもしれません。しかし、そのような大きな「ドメインチェンジ」が、様々な分野で異種混合を生み出し、それが数多くの世界に先駆けたアイデアにつながったと考えられないでしょうか。

流動性の低い日本

翻って、近年の日本企業の状況を振り返ってみれば、多数の人が新卒で入った会社で勤め上げるのはもちろんのこと、昨今ではカンパニー制浸透の弊害からか、あるいはスペシャリスト育成幻想からか、事業領域をまたがった業務経験をなかなか得られない状況にあります。

これではかつて日本で起こったような、多分野における知の融合と化学反応は到底期待できません。

本当の「多様性」とは?

昨今では多様性の問題に取り組む日本企業も増加しています。しかし、ほとんどの企業は、性別や国籍といった「属性の多様性」にのみフォーカスを当てるばかりで、肝心かなめの「思考の多様性」や「意見の多様性」にまで踏みこんでいる企業が少ないのは何とも残念です。

以上の考察からも明らかなように、多様性が創造性に昇華されるには、組織内に「思考の多様性」や「感性の多様性」が生まれ、それが結果的に「意見の多様性」につながり、組織内に建設的な認知的不協和が発生する必要があります。 つまり最終的に重要なのは「意見の多様性」であって「属性の多様性」ではない、ということです。

多くの企業が取り組んでいる「属性の多様性」に関する向上は、それはそれで否定はしないものの、それが最終的に組織内における建設的な認知的不協和につながるかどうかは、「属性の多様性」がしっかりと「意見の多様性」につなげられるかどうか、という点にかかっています。

しかし、多くの企業における取り組みは単なる「属性の多様性」の向上施策に終始しているだけで、そこからどのようにして「意見の多様性」を生み出すかについては、何の手も打たれていないように思えます。

このような中途半端な取り組みで組織の創造性が高まるとは、とてもじゃないが思えません。残念ながら、多くの企業で取り組まれている性別や出身地といった属性を多様化する試みのほとんどは、なんの効果を生み出すことなく単なる自己満足に終わるでしょう。

重要なのは、人と異なる考え方/感じ方をどれだけ組織成員ができるか、そして考えたこと、感じたことをどれだけオープンに話せるかという問題です。これは属性の問題というよりも「多様な意見を認める」という組織風土の問題であり、さらには「多様な意見を促す」という組織運営に関するリーダーシップの問題だと捉える必要があります。

この2つに手をつけることなく、ただ単に属性だけを多様化させても組織の創造性は高まりません。

上下間の風通し

イノベーションを実現するためには、組織内で生まれたイノベーションの芽となるアイデアに対して「人・モノ・金」という組織の資源を重点的に投入することが求められます。この資源投入の意思決定権限は、通常組織内における上位管理職に集中しています。

イノベーションの芽となるアイデアを生み出す人と、そのアイデアに資源を注ぎこんで育てるという意思決定権限を持つ権力者との間には組織内で大きな距離が存在しています。 そこで組織内における上下間、特に「下から上」に向かう情報量の多寡という問題が重要な論点として浮上してきます。

イノベーティブとされる企業であればあるほど、上下間での情報流通が活発に行われているという結果が出ています。そのことから一人一人が変わり、組織が変わり、結果としてイノベーティブな企業になっていきます。

参考文献:『世界で最もイノベーティブな組織の作り方』 山口 周 著/光文社新書

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